50歳のバ-スデイパ-ティ-をハワイでやろうと企画した
その前の10年・・つまり40歳になった頃から僕は自分の周辺に関する「?」を
多くの場面で感じるようになっていたのだった
それまでの、大切であったはずの友人関係における些細ではあるが疑問が
ふくらみ始めていて、多いに心を惑わす事が続いていた時期でもあった
個人的な苦悩の始まりは、フォ-ライフレコ-ド結成にさかのぼる事になる
この船は大きな問題点を横に置いたまま船出していた・・が・・その事は船が港を出る頃には
誰一人気がついていなかったのだ・・いや・・気づいてはいたが・・放置していたのかも知れない
中心人物も、それを取り巻く周辺の人々も皆んなが笑顔で「船出を祝う騒ぎ」に巻き込まれて
夢ばかりが先行したまま出港してしまったのだった
港を出てしまった船は、もう進むしかない・・そこが非常に苦しい出発であった事を
我々は忘れていたのだ・・ともかく突き進むしかない・・しかし・・
その頃から僕の心の中で育って行くのは不信という言葉と心情
若い頃に信じたはずだった事が、徐々に形を変えながら崩れて行く時間の始まりだったのだ
そも・・会社なんて作るべきだったのか?
少なくとも自分が率先して参加するべきでは・・なかった・・のでは・・
だが・・「え-い!もう遅い!遅かった」・・気がつかなかった自分が悪い
それは・・はしゃいでいた季節の終えんを突きつけられる・・自業自得の船出でもあった
・・もう行けるところまで・・突っ走るしかない
「まずいな・・俺がやろうか・・?」
だが・・どうやる?
答えは1つ!「夢の話は終わった・・俺も変わる・・皆んなも変われ・・」
もちろん音楽活動は無理に決まっている・・
「両立なんて甘っちょろい事を言ってるようでは、この船は前に進まない」
そして全員で再スタ-トを決意して数年・・会社としての体をなす頃には
やはり自分の役割も終わっていると強く感じ始める
当然だ、もともと自分の人生の目標ではない・・ここは似合わない
僕はア-ティスト活動を再開する決心と共に・・・1つ!心に言い聞かせた事があった
「この会社設立を含めた、70年代の自分を取り巻いていた環境と別れよう」
あの騒々しかった時代の中で無意識の内に育まれていたであろう
「はかない友情とか絵空事の人情」などが・・すべて「もろく崩れ落ちて行く」のが見えたのだ
自分に激しく問うた「お前は何を根拠に、その場所に立っていたんだ」と!
答えは明白だった・・自分が「ことごとく、わかっていない」・・それだけだ
50歳のバ-スデイパ-ティ-in Hawaii は素敵な時間となった
ファンの方々との愉快な1日も、いかにも「かつての僕らしく・・なく・・て!」良い思い出になった
僕にとってもア-ティストとして再活動を始めたものの、所属事務所、マネ-ジメントetc
あらゆる環境が定まらず試行錯誤が続いていた
アルバムレコ-ディングやツア-活動などが順調に回復していたにもかかわらず
そのマネ-ジメントやツア-に関するスタッフという点では暗中模索の連続で
(ここにも、過去への郷愁と思える人選が優先されるシ-ンが多く・・すべて失敗に終わっていた)
何としても恒久的な人心一新が必要な季節だった
色々な意味でこのパ-ティ-を1つの区切りにする覚悟だったのだ
パ-ティ-のディナ-メニュ-等すべてを事前にハレクラニホテルのスタッフと打ち合わせして
ワインの種類からショ-の内容まで決めるほど、僕はこのパ-ティ-の意義を感じていた
招待客もフォ-ライフからは2~3人しか選ばず、長年の付き合いである地方のイベンタ-諸氏と
ラジオを通じてのリスナ-ゲスト中心にパ-ティ-を催したのは、その後への「強い想い」からだった
僕自身、この夜は大変に素晴らしいメモリ-となって・・そこから次なるステップへの
最高の夜となった事は記憶にも新しい
今でも覚えている光景がある・・
当日のお昼にカハラホテルでの昼食集会から、全員でのカハラモ-ルでのショッピングが愉快だった
ある男性ファンに「君のショ-トパンツは短すぎるよ、せめて僕ぐらいの長さにしなよ」と
当時、流行の兆しがあったストリ-ト系のファッションをすすめたのだ
僕に言われて彼はすぐに、そのパンツを売っているショップに走ったのを笑顔で見ていた
(アイツ元気かな)
*画像はハワイのレストラン前で踊る僕
パ-ティ-の翌日に僕達夫婦とスタッフだけでの夕食会を開いた
パスタ専門店だったがkayoさんは・・なかなか・・お口にあわない様子で・・
それを拝見しながら僕は・・「大丈夫かなあ~kayo さん ご機嫌 いかがでしょうかねえ」
なんて・・気にしているうちに・・酔ってしまって(笑)・・表に出て踊り始めたのだった
2024年9月17日 拓郎