TAKURO YOSHIDA
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ラジオの青春

ラジオの公開番組の収録は各ステ-ションで盛んに行われた


主にデパ-トの屋上、そして豊島園などに設けられた特設ステ-ジで


ほぼリハ-サルとか無しで歌う事が多かった


そして例えば僕と、いわゆる歌謡曲のヒット歌手が共にゲストで


そこに登場する、という企画はゼロだった


当時は空オケというものが未だ無い時代である


彼等は生のオ-ケストラ無しでは歌う事が出来ない・・


そこへいくと我々のスタイルはギタ-1本でOK、安上がりでもある


 

そして、もちろん「そういう方々とは一緒のステ-ジに立ちたくない」


と内心で思っていたのも事実だったと言える


とは言え、僕のもとには「アッチ側」からの様々なアプロ-チが増えつつもあった


(当時は我々のような存在をコッチ側、テレビ中心の歌手達をアッチ側と言っていた)


 

そんな「アッチだのコッチだの」言ってるうちに時代はどんどん流れて行く


僕の周りにも多種多様な生き方を主張する連中が集まってくる


「音楽に接する限り、我々は同じ世界に住むライバルであり友達なのだ」


大手芸能プロダクション所属で売れっ子歌手のマネ-ジャ-諸氏


メジャ-レコ-ド会社のディレクタ-達とも夜な夜な語り合う時間が増えた


僕自身の「不必要なまでの反逆精神」も、その事の無意味さの方が気になり始める


 

ラジオで本音を吐露する事で「個人的なやすらぎ」を得ていたつもりだったが


その方針そのものが時代の流れに合わなくなっている事にも気がつく


ラジオを聴くリスナ-の側でも、彼等の住む自分の実生活の中での変化や実情が


(例えば就職、例えば結婚そして子育て)


僕の発する言葉と交わらない現実を感じ始めていた


 

*画像は山本コウタロ-と池袋のデパ-ト前の特設ステ-ジで


 まだ「岬めぐり」の大ヒットの前だったと思われる


 彼はその頃、僕のところへ来てはギタ-の奏法や作曲の時のコ-ド進行などを


 熱心に聞きながら「我流ってホントにカッコいいものなんだね」とつぶやいていた


 

 また彼は高田渡たちと「武蔵野タンポポ団」というバンドをやった時期があり


 僕も彼等と何回も同じステ-ジに立った


 あるライブでは先に出演した僕が「カエレ、カエレ」のヤジに包まれて


 さすがに頭に来た僕が1~2曲だけしか歌わないでステ-ジを降りた後に


 武蔵野タンポポ団が出演・・・高田渡は少しアルコ-ルが入っていて


 演奏が「揺れていた」が、客席は無言で彼等を受け入れていた


 ステ-ジ横で、その光景を見て僕は思った「酔っ払ってるコイツらの演奏に


 客席は何らのブ-イングも示さない・・愛されているんだコイツラは!」


 愛が無いステ-ジをやっても意味が無い、僕はそんな中に居る自分を痛感し


 そして強く心に決めた「拓郎の音楽を愛してくれる人たちの前で


 持ち時間など気にしないで思いきり自分の音楽の世界を展開したい」


 

 ステ-ジが終わってコウタロ-が近づいて来て言った


 「今日の観客たちにはタクロ-はNGなんだよね、それは最初から空気で感じた


 そういう場所が、まだまだ、あるんだって今日は強く感じたね」


 ワタルが来て言った「タクロ-お前、また頭に来たんだろ–?しょうがね-よ


 ウイスキ-でも飲んで発散しちゃえよ・・・つき合うぞ」


 フォ-クソングなんて「クソ食らえ」ではあったが・・


 彼等の気づかいが痛いほど伝わって・・泣いた


 コウタロ-もワタルも本当に「いいヤツ」だった


        2024年 8月12日  拓郎