TAKURO YOSHIDA
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ラジオの青春

「ペニ-レインでバ-ボン」を歌う事で僕はバ-ボン党のイメ-ジに


なったようだったが・・実はあの店で僕がその後にたどり着いて


原宿を卒業するまで1~2年の間、愛飲していたのは・・


レミ-マルタンというチョット高額なブランデ-を


水割りにしてオンザロックでレモンスライスを1枚入れるという・・


まあ・・あまり・・誰もやらない・・飲み方で・・酔っ払うまで飲む!


(つまり気持ちよく酔えるなら、それが一番!的な飲み方だった)


現在は誰も不思議がらないが・・あの頃はお酒ツウな大人達が・・


「アイツ何にもワカッテナイ」と笑っていたはずである


 

それもそのはず、ペニ-レインという店は若者をタ-ゲットに出来た


カジュアルなバ-だったから、レミ-マルタンなんて高級酒・・


つまりブランデ-なんていう、雰囲気的にも場所に似合わない飲み物は


置いてないのだった・・が・・僕は店長のY君とは飲み仲間だったので


特別にメニュ-外で置いてもらっていたのだ


 

後に作詞家の松本隆と作った「ドンファン」(神田広美)の歌詞に


「レミ-マルタン、水で薄めてはプレイガ-ル達の輪の中で・・」とある


ただし、ここで出てくる原宿の店は、ペニ-レインではなく


もっと青山通りに近い場所にあった「プレイバッハ」という店の事で


松本隆とは何回もこの店でミ-ティングしたし食事した


もともと六本木が居場所だった、かまやつひろし、瀬尾一三、安井かずみ


と言う連中も僕と会う事で原宿へも顔を見せるようになったが


みんなペニ-レインではなくプレイバッハを選んでいた


(今だから白状すると・・あの頃ペニ-レインは食事が・・・だった)


そして僕も彼等との接点が濃厚になるにしたがって


原宿へは行かなくなり、もっぱら六本木が溜まり場の中心となるのだ


 

原宿という街の楽しさを僕自身が心から感じながら


毎晩のように飲み歩いていた季節と言うのは本当に短いのだ


(そもそも僕等が原宿へ行くようになったのは・・それまでの遊び場だった


新宿に居場所が無くなりつつある空気を感じたからだった


とは言え、原宿は当時は静かな住宅街のイメ-ジが強く


有名な原宿アパ-トが、ちょっとパリを思わせる雰囲気で立ち並び


我々がペニ-レインを拠点にし始めたことは


古くからの住人の方々はきっと不愉快だっただろうと察する


そして現在の原宿は、もはや僕達の青春だった風景も完全に消えて


ヨ-ロッパ等のブランドの路面店が建ち並ぶファッション街となり


海外(特にアジア)からの旅行客が観光で訪れる街へと変化した


僕も「ペニ-レインへは行かない」を作ってからは表参道へ行かない


 

そんな短い瞬間でありながら、沢山の楽曲を生み出させた街もまた


原宿である事は事実で・・


それは青春の時間「笑い・悩み・泣き・怒り・叫び・黙り・飲み・走る」


そのものでもあったのだ


 

*画像は文化放送の公開番組に出演中(背景にそれが見てとれる)


 そして、もう1枚はニッポン放送の豊島園での公開番組と思われる


 こうして観てみると、いかにラジオの公開番組が多かったか


 そして若い人達が沢山集まる風景が、そこにあったかが想像できる


 僕達シンガ-が、当時、大いに重宝がられていた事も事実だったのだ


      2024年8月2日  拓郎