TAKURO YOSHIDA
menuclose

ラジオの青春

自分がどのような環境に居ようと、いかに業界的なハンデを背負おうと


僕にとって常に無言での応援をしてくれたのがラジオの存在だった


E社にいる間も東京だけでなく地方の放送局からも沢山の声をかけてもらった


自分の身の置き所に窮していた時代ではあったが


番組への出演の話が来ると心から嬉しかった


 

高校の頃から鉱石(ゲルマニウム)ラジオで始まった音楽の夢は


そのままトランジスタラジオへと替わり


そしてラジカセで自分の好きなカセット集を作り


今はスマホ!


あの頃の密かな楽しみだった「ラジオを聴く」という行為は


時代と共に「密か」ではなくなり「皆でスマホしながら」と変化した


だがラジオが持つ本来の魅力「想像させる空気感」というものは


今の時代も不滅である!と・・


僕は今も時々マイクに向かいながら(もうすぐ終わる)感じている


テレビはすべてが見えている


ラジオはウソが見えにくい(笑)


だから好き!!


 

TBSラジオから「深夜放送に興味はないか?」と連絡があった


パックインミュ-ジックは若者中心に大変な人気番組で


あの頃の若者文化は「深夜放送から生まれる」と言われた時代だ


木曜パックは北山修の担当だった


彼の最終回放送に出演させてもらった


「あ-ここがパックインMの番組を生み出しているスタジオなんだ!」


とても居心地の良い空間だと感じた事を覚えている


「来週から僕がここで、この人気番組を担当する」と思うと興奮した


 

新しく生まれる吉田拓郎のパックインM担当のMディレクタ-と食事をした


とても硬派で実直なイメ-ジのM氏から僕はその後多くの事を学ぶのだ


例えば、政治的な社会的な国内の動向などに全く無関心だった僕に


毎週の放送前に新聞を片手に2人だけのト-クタイムが設けられていた


番組は深夜1時からの生放送だが僕のTBSインは夕刻の6時頃で


地下にあるレストランTOPSで夕食をしながら本日の放送内容の確認


そしてM氏のデスクで1週分のハガキを全て読み選ぶ作業(マジ大変だった)


アッと言う間に日付が変わり、毎回ドタバタ気分でのスタジオインだった


 

今でも忘れられないのが「アントニオ猪木の突然のスタジオ来訪」


ガロの「学生街の喫茶店」・・当初B面だったこの曲を聴いた瞬間に


Mさんに言った「A面はかけない!僕はB面が好きなんだ」大ヒットした


後年、番組の制作陣が外部スタッフ中心の番組制作に移行すると聞いて


「Mさんが居なくなるなら俺もやめる」と番組を降りた


 

*画像はTBSパックインミュ-ジックのスタジオと


 Mディレクタ-の仕事机でハガキに目を通す僕


 これ等のハガキの中から「春だったね」「せんこう花火」等の


 僕にとっても忘れる事の出来ない素晴らしい楽曲が生まれた


     2024年7月31日  拓郎