広島フォ-ク村のアルバムから後に「アラレもない継ぎ接ぎ」による
原曲を無視した短縮版「イメ-ジの詩」がE社から発売されてしまう
この件で頭に血が昇った僕は販売会社へ猛烈なる抗議のため上京する
ここから僕の最後の挑戦となる決意の東京生活が始まった
そして、所属する事になる通販系のマイナ-レコ-ド会社が
先の広島フォ-ク村のアルバム制作に裏側で関与していた事など
当時の僕が知るよしも無い事だった
ともかく東京で「これが最後の挑戦」という生活に突入する事が
好むと好まざるとに、かかわらず決定してしまったのだ(運命なのか?)
この会社へ僕はア-ティストではなく1人の社員としての給料制で
入社する事になった(当時、何もワカラナイこの男はア-ティスト契約とか
作家印税とか・・知らない・・知らされていないロ-カル人間であった)
ただ、東京で自分の音楽を何とか開花させるために頑張ろうと言う気持ちは
純粋に燃えたぎっていたから、何も疑う事なく会社の言う事を信じて
前向きに日々を送っていたのだ
色々な場所で歌った
・デパ-トの屋上特設テントで
走り回る子供達の遊び声を前に
・東京近郊の商店街にあるレコ-ド店の店頭で夕刻
買い物途中のお母さん達が行き来する中で
・渋谷の宮下公園に午前4時集合で「ある映画」の撮影に
いまだに「なぜ僕が・・?」と首をひねる・・1シ-ン
・子供達が審査員で、新人歌手に点数をつけるテレビコンテスト番組で
イメ-ジの詩「何が言いたいのかわからない」と落選(笑)
・NHKの音楽番組に出演するには絶対!とオ-ディション
イメ-ジの詩「4コ-ラス目あたりでNG」が出る
その他・・色々と体験しながら心の中に1つの思いが芽生え始めた
「このまま、この環境で同じ事を繰り返す事は時間の無駄ではないか
こんな事をやるために上京を決断したのではない!
そして、こういう東京中心型の旧態然としたメディア等の体質の中で
自分が目指している音楽に未来は無い」
ある日の事、ラジオ局(当時のラジオ関東)で出会った加藤和彦と
数時間お茶をしながら色々と話し合う機会があった
彼はすでに日本のポップス界のヒットメ-カ-としての地位を築き
普段のイデタチからして僕などと別世界の人に感じた
「今いるマイナ-なレコ-ド会社で1枚LPやったんだけど・・
たった1日ですべて仕上げろ!って言われて・・しかもアレンジとかも
俺の意見は聞いてくれずに会社が用意したバンドでやらされてサ-
とにかく全てにおいて不満だらけなんだよね-・・
それで、もう早くも2枚目を作れ!って言われちゃって・・困ってるんだ」
加藤和彦は現状の日本のポピュラ-音楽の環境とかを「良くも悪くも」
彼なりのポジションで理解していたのだろう・・・僕に言った
「もし次のLPとかレコ-ディングする用意があるんなら手伝おうか?
少なくとも拓郎の今の不満はクリア出来ると思うよ」
「具体的には俺はどうすればいいんだい?」
「会社に話しておけよ!加藤が何曲か責任もって現場でやるから」ってね
このレコ-ディングで僕の次へのステップが決定的になる
1:今ある環境から出る 2:新しい世界を見つける
3:OKかNGかをハッキリする 4:もう妥協はしない
メジャ-の世界に飛び込み、そして、そのメジャ-の意識改革にも挑む
僕の周りには既に才能あふれる次世代ミュ-ジシャンや
現状に飽きたらない音楽関係者が集まって「明日」を語り合っていたのだ
僕が上京後に初めて出演させてもらったのは当時のラジオ関東だった
パ-ソナリティ-は森山良子(広島時代からラジオで曲も知っていた)
とても気づかいの優しい語りかけでロ-カル出身の僕を和ませてくれた
その後も色々な番組で色々なパ-ソナリティ-達と出会う事になるが
ほとんどが先輩風を吹かせるキャラクタ-で好きになれなかった
そして・・加藤和彦との出会いも!やはり「ラジオ関東」での出来事だった
*画像はレコ-ドデビュ-という事で会社が古い習慣にならい
地方のレコ-ド店の店頭サイン会を企画するも・・
誰も見向きもしない・・興味も示さない・・
夜になって街の酒場で飲みながら思った「もう無理だよ」
もう1枚は後年に加藤和彦と映画「旅の重さ」用に「私の足音」「歩け歩け」を
レコ-ディング中(六本木CBSソニ-1st)
2024年7月29日 拓郎