千葉での挑戦中に知りあった東京の音楽関係者の紹介で
「人前で歌う機会」を作ってもらった事が数回あった
東京の渋谷や新宿の小さなLive形式の喫茶店
(今ならライブハウスと言う事だが当時そう言う呼称は無く
音楽喫茶とか・・そんな名称だったような記憶がある)
に出入りして東京の音楽事情を肌で感じる必要があった
しかし、正直に言って少し失望し始めていた事も事実だった
例えば、あるバンドは日本語で作られたオリジナルの持ち歌を
1~2曲演奏しながも、30分のステ-ジのほとんどが
ベンチャ-ズの「インスト曲を演奏する」というスタイル
その、いっけん器用とも受け止められる演奏スタイルは
僕には理解不能の音楽性であり、決してカッコヨクナイのだ
(少なくともビ-トルズのスタイルには、ほど遠い)
そんなバンドが人気者になっている東京の音楽の現状は
挑戦のはずが、失望感の方が大きくなるばかりで
僕の夢も、はかなく消えて行くだけ!という終幕を迎えていた
そして半年の間に10数曲の新作をレコ-ド会社に届けて
判断を委ねたが・・反応は大いにニブイものであった
(もちろん僕の実力にも限界があった事は間違いない)
広島のバンド仲間だったM君に手紙を書いた
「思っていたのと現実はまったく違っていました
ここには僕の思い描いていたポピュラ-音楽の夢は存在しません」
M君から折り返し返事が来た
「東京だからすべてがベタ-って時代じゃないんだと思います
帰って来ませんか?もう一度我々の残りの時間をフルに活かして
理想に近いバンドを結成しませんか!」
「やっぱり僕ってバンドの1人としての道が似合ってるのかな」
「君が帰って来て再びバンドに参加する気持ちがあるなら
僕にも新しいアイデアがあります
お互いにラジオで目覚めたポピュラ-ミュ-ジックを
さらに絞り込んでプロでも出来ないサウンドを目指しましょう」
母にも手紙を書いた
「約半年とちょっとの挑戦でしたが夢は叶いませんでした
でも本当に有意義な時間をありがとう! 帰ります」
帰広する前からM君とは頻繁に連絡を取り合い
新たに作りたい僕等の理想とするバンドの骨子を相談していた
大好きだったペトゥラ・クラ-クのヒット曲「恋のダウンタウン」から
バンド名は「ザ・ダウンタウンズ」とすること
4人編成でM君と僕がメインボ-カルとギタリスト担当
ベ-スはバチェラ-ズ時代の仲間のO君に声をかける
そして新たにドラマ-を募集して探す
*画像はザ・ダウンタウンズの本拠地だった
広島カワイ楽器5Fでの定期無料Live中の写真と
市内のホ-ルによる有料リサイタルのチケット
2024年7月24日 拓郎