TAKURO YOSHIDA
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ラジオの青春

高校を卒業して僕はバンドがやりたかった


しかし入学した広島商科大学(現在の広島修道大学)で


エレキギタ-を弾きたければカントリ-&ウエスタン部


に入るしかなかったのだ


当時は「ロックンロ-ル部」なんてクラブ活動はあり得なかった


しかし、まあその後もきっとどこの大学でも現在に至るまで


そんなクラブは正式には存在しなかったのだろうと推測する


 

僕はあの頃まだカントリ-ミュ-ジックとかに興味は無く


とにかくエレキギタ-でロックがやりたいのだ


 

入学して間もなく先輩学生による新入生への部活勧誘が始まった


とりあえずカントリ-&ウエスタン部をのぞいてみよう!と思い


僕は部室へ向かった・・ここからドラマが始まる


 

カントリ-&ウエスタン部の部室を探している僕に


1人の大柄な学ラン姿の男が話しかけてきた


「おい!君は俺と同じクラスの吉田君だろう!何してるんだい?」


「え・・あ・・そうだよ吉田です・・あの・・カントリ-の部室ってどこ?」


「あ-カントリ-か、君・・そこへ入部したいのか?」


「いや・・まだ・・決めてないし・・ちょっと・・様子を・・」


「おい!君、こっちの部室へ来いよ、君は高校時代に応援団とか


やってたんだよな?噂が入ってるぞ」


「え・・え・・何ですか?・・え・・応援団?・・僕がですか?え?」


実は・・この大学の各クラブの部室の並びが・・運命的だったのだ


 

「カントリ-&ウエスタン部」の隣は「応援部」の部室だった


そしてこの2つのクラブに所属していた1人の先輩Kさんは


何と広島で当時、最も有名だった(確かに演奏が上手かった)


エレキバンドのドラマ-だったのだ


 

僕はカントリ-部に入部することは取りやめた


そして僕に声をかけてきた同級生のF君は応援団員となり


その後しばらく交友関係が続く事になるのだ


 

後年、日本中で問題となった大学のクラブ部員による下級生への


シゴキ事件が我が校でも表面化し応援団は謹慎となるのだが


F君は1人頑張って応援団愛好会を結成し団の復活を目指した


僕は彼とのつき合いから及ばずながらも後押しをする事になる


そして月日が流れ、ある日、全国ツア-で新幹線の広島駅に到着


駅のホ-ムに列車が入るその直前から・・


車内の僕達にも何やら聞こえてきたのは


太鼓を鳴らす音と人の大きなかけ声だったのだ


F君が僕に示してくれた友情の「応援団による駅での出迎え」


僕は列車から降りる時、他の乗客への恥ずかしさを覚えながら


ホ-ムにずらっと並んで学ラン姿でエ-ルを送ってくれている


名前も知らない後輩たちに・・涙でしか応えられなかった


 

さて上述した広島NO1バンドのドラマ-で大学の先輩Kさんとは


その後、広島のバンド同士で良きライバルとなるが


彼等はベンチャ-ズスタイル、僕達はビ-トルズスタイルだったので


時代的に僕たちの方が生き残る事になる


そして、そして、このドラマ-の先輩Kさんは後に・・何と!


我々が育ち有名になって行くのを最後までサポ-トし続けてくれた


広島カワイ楽器店の店長に就任する!という・・不思議なドラマなのだ


 

*画像は高校を卒業後に高校時代の音楽好きが集まって


 初めてバンドを結成した時の初ステ-ジと2回目のもの


 皆実高校出身と広島商業高校出身が3人ずつ集まって結成した


 「ザ・バチェラ-ズ」では僕はドラマ-としてデビュ-だった


 会場は平和記念館という、ロックのLiveには不向きな場所だった


 だが「若者の文化は誰にも止められない」という景色が見られる


 そんな場所でありながら、我慢出来なくなった客席の若者達が


 流行りのモンキ-ダンスを踊り始めてしまったのだった


 当然、コンサ-ト終了後に我々は会場側からお叱りを受け


 「この場所へ2度と出入り禁止」と通達された


 素晴らしい想い出の1枚である


      2024年7月18日 拓郎