TAKURO YOSHIDA
menuclose

ラジオの青春

ある日バンドのメンバ-でO君が僕に話しかけて来た


「拓郎!広島でフォ-クソングのコンテストがあるみたいだぞ


お前、出てみたらどうだ?どうせ俺達のバンドは解散風だし


フォ-ク村でもお前のはチョット変わってるから


案外と東京の審査員達もビックリするかも知れないぞ」


「へえ-そうか・・でもなあ・・俺フォ-クソングって良く知らないし


歌う曲が無いんだよな-・・アメリカンポップスならねえ・・


それに、お前達のバックが居ないとなあ・・1人じゃ無理だよねえ」


「だってお前ボブ・ディランとか時々真似してるじゃ-ないか!


ディランって1人でギタ-弾きながら歌うんだろう?


それをやればいいじゃ-ないか」


 

楽しかったバンド活動が自然消滅的な時期だったが


かと言って・・フォ-クソングに熱中するエネルギ-も出て来ない


「コンテストって何か面白いのかな-」くらいの関心しか湧いて来ない


くわえて、我が家の経済状態も僕をマイナス指向にさせた


母親が1人で茶道教室での収入を頼りに僕の学費を支えている今


もはや音楽を続ける事よりも就職活動に本腰を入れる時ではないか


その頃、僕はギタ-教室などのアルバイトも徐々に減らしていて


持っているのはセミアコのエレキギタ-1本だけである


フォ-クソングで使われているアコ-スティックギタ-なんて


当時はとても買えない値段だったのだ


 

もう1人のバンドメンバ-M君は


フォ-クソングのブ-ムとかを冷ややかに見ている人だった


M君は僕が上京後も「フォ-クの拓郎」には興味を示さず


新曲やアルバム曲にR&B風のフィ-リングがあると必ず


「拓郎、あの曲いいですね-」と喜びを伝えて来てくれたのだ


(キャンディ-ズの「やさしい悪魔」が大好きだったと後年に話していた)


「拓郎!君がもし、そのコンテストとかに出るんだったら


他の出演者とは違うアピ-ルを考えた方がいいよね


何か審査員とかがびっくりするような事を考えてね・・」


「え-?例えば・・どんな事だい?何をやればいいんだい?」


「まあ、そうだな・・俺だったら上半身は裸で・・下はステテコとかで・・」


「・・・・・・」


 

僕は1つのアイデアを思いついた


持っている「エレキギタ-1本」でディラン風に弾き語りをやってみる


(まだボブ・ディランもエレキギタ-を弾いていない?と思っていた)


歌う曲はフォ-クソングではないアメリカンポップスから選ぼう


もし課題曲とかがあってフォ-クソングというジャンルから


選曲する場合は、オリジナルとは全然違うアレンジにして


審査員達にも原曲がワカラナイようにして演奏しよう


 

コンテストの関係者から前もってアンケ-ト用紙が届いた


歌う曲目はエディ・フィッシャ-の「愛しのシンディ-」と決めた


フォ-クソングと言うジャンルからは「花はどこへ行った」を


キングストントリオの盤で覚えて、途中から7thコ-ドでの


ブル-ス風アレンジで演奏しながら歌う、と答えた


 

*画像は広島時代「フォ-ク毒えん会」という僕のソロコンサ-ト


 弾き語りでオリジナル曲が中心だったと思う


 他にギタ-教室の後輩生徒たちとグル-プを作り


 僕のオリジナル曲を数曲演奏した


 この時、僕と一緒にステ-ジに立った後輩たちのほとんどが


 「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」


 のレコ-ディングに参加する事になる


    2024年7月19日  拓郎