広島フォーク村と言う団体の結成にあたっては
僕自身はさほどの興味とかを抱いていたわけではなかった
(そもそもフォ-クソングって?という程度の知識だった)
だが、愛してやまなかったロックバンドのLive活動が
大学の卒業を1年半後に控えていた事と、その後の就活もあり
バンド内でメンバ-個々の自由時間が噛みあわなくなっていた
当時メインのLive活動と言えば岩国米軍基地や市内のディスコが
多かったが、週に1回程度の新曲を含めた練習も困難になった
そんな時期に大学の後輩であるI君から相談を受けたのだ
あの頃は全国的に大学でキャンパスフォ-クという名称での
ブ-ムが盛り上がりをみせていた時代だったと思う
広島市内にも各楽器店の戦略でアコ-スティックギタ-販売を
促進させようと「ギタ-教室の開設」が盛んになっていた
ヤマハ・カワイ等のピアノ中心に全国的な販売網を展開していた
いわゆるメジャ-な楽器店が、突然のように巻き起こった
フォ-クブ-ムを無視できない季節だったのだと思う
このブ-ムの前に日本ではザ・ベンチャ-ズの「ウオ-クドントラン」
の大ヒットでエレキブ-ムという時代があってエレキギタ-で
演奏するバンドがプロ・アマ問わず沢山登場していた
大手の楽器会社だけでなくエレキギタ-専門の新規メ-カ-も含め
国内外製のエレキギタ-が楽器店の店頭に並ぶようになった
「勝ち抜きエレキ合戦」(このタイトルで間違いなかったかな?)
という番組がテレビで放送されるほどエレキブ-ムは凄まじかった
ただし当初はザ・ベンチャ-ズがそうであったように
リ-ドギタリストがひたすらにテクニックを披露するという
いわゆるインストゥルメンタル中心のバンドという形態で
(僕はベンチャ-ズよりもイギリスのシャドウズが好みだった)
ボ-カルが中心の「グル-プサウンズ」(誰が言い始めたのか?
今になって思うと実に雑で軽々な名称だと感じる)の登場は
ビ-トルズの世界的な大ヒットから始まる事になる
広島の市内にある主な楽器店はギタ-の販売促進として
各々がエレキギタ-教室を開催していたのだが
エレキギタ-ではなくアコ-スティックギタ-を使う
(日本ではフォ-クギタ-と言うようになった、これもどうか?)
フォ-クブ-ムも無視出来ないという時代が来ていた
僕とバンドリ-ダ-のM君はすでにエレキギタ-教室を
開設していたのだが、ある日カワイ楽器店の店長から
「拓郎くんフォ-クギタ-教室もやれるのかね?」と聞かれ
僕は当時フォ-クソングにほとんど興味も無かったし
もっと言えばフォ-クギタ-の奏法・・
例えばカ-タ-ファミリ-ピッキングという独特の奏法などの
知識も技術も持たない、あくまで自己流のエレキギタ-しか
弾けない人間だったのだけれど・・
「アルバイトとして結構いい稼ぎになるかも」と承諾した
事実、月収は大学生のバイトとしては悪くなかったから
行きつけのマンモスバ-にボトルをキ-プして毎晩のように
バンドの仲間と飲んだり音楽の話で朝まで語り合ったり
もちろんナンパしたり・・楽しいアルバイトとなっていた
時代がキャンパスフォ-クのブ-ムでもあったし
僕等のロックバンドがかなり有名になっていたのも影響してか
僕のギタ-教室には主に女子大生や高校生たちが来るようになる
しかし、そこで教えるのはいわゆるフォ-クギタ-奏法ではなく
僕が自分で作成した教則ノ-トを見ながら
「ピックで弾く」(ベ-スランを加えながら弾く僕の自己流テク)
「色々なストロ-クを教える」と言う異色の教室だったのである
レッスン曲も人気のフォ-クソングなどではなく
(そもそも僕はフォ-クソングのレパ-トリ-すら知らない)
アメリカンポップスから選んだエルビスプレスリ-や
ジョニ-リバ-ス等のロックンロ-ル曲がほとんどだった
I君が言った「カワイとヤマハと楽器センタ-や他の
ギタ-教室を1つにまとめてフォ-ク村という団体を作りたい
そこで皆で一緒に歌や楽器やコ-ラス等の研修を積んで
各ギタ-教室の生徒も含めての定期コンサ-トを開催したい」
バンド活動がヒマになっていた僕は、就職という目先の将来にも
何か「夢」を見いだせないままのグ-タラ日常だったはずである
「やってみたら!協力するよ」と応えたのだった
*画像は広島フォ-ク村時代
地元のテレビ局からの出演依頼で市内の平和公園で
子供たちと一緒にフォ-クソングの名曲「パフ」を演奏
ただしオリジナルのピ-タ-ポ-ル&マリ-が弾いた
2フィンガ-奏法を1夜づけでコピ-したが上手く弾けず
現場ではピックで弾いてごまかした(笑)
この時生まれて初めてボブディランの「風に吹かれて」を
歌ってみせたら、子供たちに「こっちがカッコいい」
と褒められて・・
内心「俺はP.P.Mではなく今後はボブディランで行こう」と
思った・・か・・どうか・・?・・?
2024年7月16日 拓郎