TAKURO YOSHIDA
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ラジオの青春

来週、石川鷹彦に会いに行く


彼が不幸にも脳梗塞に倒れて・・月日が経った


昨年、彼の自宅を訪ねて、僕の鷹彦への長きにわたる想いを伝えた


現在の彼は、自分で動けるし自分の意思で日常を過ごせるのだが・・


会話が不自由な事と、片腕が自由にならない後遺症に苦しめられている


しかし、鷹彦(僕は彼をサンづけではなく、親しみを込めて呼び捨てにしていた)は


生来の明るさと、奥様や家族の大いなる支えの中で、笑顔を絶やす事なく


1日1日を「必ずや訪れる解放の日」を目指して頑張っている


 

 

ある日アルフィ-の坂崎に、この話しをしたら「拓郎さん僕も石川さんにお会いしたいです


是非とも次回は僕もご一緒させて下さい」と強いリクエストだったので


今年の春、二人で石川宅を訪問した(アイツ・・俺の用意した車に同乗しやがった(笑)


坂崎と僕が二人になると、どうしても、以前にやっていた「お馬鹿ANNG」調になってしまう


鷹彦は、それが楽しかったらしく・・「また来いよ」って笑っていた


アルフィ-は定番のツア-が始まったようだが・・坂崎は「次いつ行きましょうか?」と


再訪スケジュ-ルを何回もチェックして来た・・結果・・来週という事に


 

 

 

僕が上京してしばらく、不本意な音楽生活をおくっていた時期があったが


それは実は、僕自身の無知が遠因だった事も認めざるを得ないと思う


「レコ-ディング」という、最も重要な時間でなければならない瞬間を


時代的な変化や、世界の若者文化が爆発する時を迎えているという現実を知らない


そんな大人達のミスリ-ドに任せてスタジオ入りをしていた自分が恥ずかしい


 

 

だが幸運の女神が、僕を大手メジャ-レコ-ドへと導いてくれる


アルバム「元気です」は自分自身が命の水を得たように活き活きとした精神状態での


レコ-ディングが続いた(1曲録音する毎に、新しいテクニックが生まれる歓びを感じた)


参加ミュ-ジシャンも、当時は無名であっても才能豊かな若者が集まって


日ごとに、彼等自身の演奏も多様なスタイルを表現するようになって行ったのだった


 

 

そんな中にあって石川鷹彦の存在は、僕にとっては最大の意味を持つ事になる


そもそも僕にとっては「フォ-クソングなんて、クソ食らえ」な時期だったのだが


石川鷹彦の弾く、あらゆる楽器の演奏を「この目で見、耳で聴く」事になった瞬間に


僕のフォ-クへの偏屈とも言えるイメ-ジが大きく変わったのだ


「こんな美しい音色と奏法で楽器を鳴らすミュ-ジシャンが東京には居たんだ


 フォ-クとかロックとか・・そんな事・・どうだっていい!音楽をやるんだ!」


そしてスタジオで彼の次々に出てくるアイデアの豊富さに再び驚嘆の連続である


アコギはもちろん、フラットマンドリン、バンジョ-、ドブロ・・ついにはエレキギタ-やベ-ス


そして・・・・


**ちなみにアルバム中の「夏休み」は、まず12弦ギタ-で僕がフラットストロ-クを録音し


次にリ-ドっぽい(エレキっぽい)アコギをギブソンJ-45で、これも僕が弾いた


すべてロックバンド時代のテクニックで指弾きしたが、J-45の響きが素晴らしいのは


アコギの録音の仕方を加藤和彦から学んだ後だったので


Recエンジニアに録音マイクの位置等を細かく指示したのが見事に功を奏した


そして曲は2コ-ラス目に右サイドから鷹彦のフラットマンドリンが入って来て


3コ-ラスからは左にこれも鷹彦のバンジョ-が来る・・このアイデアも彼自身だ


また「こっちを向いてくれ」はJ-45と12弦ギタ-のストロ-クは僕だが・・他の・・


ベ-ス・フラマン・エレキギタ-おまけにピアノもすべて石川鷹彦が1人で演奏した


ついでに「祭りのあと」のベ-スも鷹彦である


 

 

こうして「音楽する事の楽しさ」を石川鷹彦が目の前で僕に見せてくれるスタジオワ-クは


それこそ「夢にあふれた・笑顔と・希望と・自信とが」飛び回る空間となったのだった


加藤和彦が示した録音テクニックと石川鷹彦が見せた見事な楽器プレイが


その後の僕に、いかに大きな財産となったかは・・計り知れない


 

*画像は昨年、石川鷹彦宅を訪ねた時の記念撮影


 鷹彦も白いものは増えたが・・あの人懐っこい笑顔は変わらない


 「もうすぐ又、時代遅れの漫才コンビが行くからね(笑)」


    2024年11月8日  拓郎