TAKURO YOSHIDA
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ラジオの青春

植物を日常の中に意識する事は大切な時間だと感じる


これは現在の僕の心境という事ではなく、もっと昔・・広島に住んでいる頃から


このガキは植物や動物に興味を持つ男の子だったようである


小学6年の春だったか・・母が偉大なる前進力と無言の努力によって


広島市内の新しく開発された住宅地に家屋を建てたのだ


あの時代に、子供達を育てながら、女性が1人の力で家を建てるなんて・・


スゴイ事なのだが・・当時はガキで・・母の苦労など考えもせず・・


ともかく貸し間(1軒家に空き室を持つ家主さんが部屋を賃貸ししていた)や


アパ-ト暮らしからの脱出が夢だったので、自分の家に住める歓びで気分は天国だった


 

 

母はその頃、広島市内の盲学校で栄養士として働いていたが


土地購入と自宅建設の費用で大きな借財を背負う事になり、収入の拡大を考えていた


友人の誘いで覚えた茶道を、何とか活かしたいという情熱のままに


茶道レッスン用の茶室を作り、自らも茶道教授の免許を迅速に得るべく


市内の有名な茶道教室へ日参し・・またたく間に師範の免状をいただいて


新築の我が家で「吉田宗朝」(母の名は朝子)による茶道教室が開催される事になった


 

僕が中学に進学してから、時々だが茶室に呼ばれて生徒さん達と一緒に


「お茶のお点前」をつき合わされるようになり、次第に茶道の基本の手順などを覚えていく


高校2年の頃には茶道の中級資格に値する「台天目(だいてんもく)」等をクリアしていた


*母が当時よく話していたのは「拓ちゃんは大学も広島に留まって、就職が決まったら


 母さんの後をついで茶道の教師も続けるといいね」であった


 元々が病弱な僕の、将来を見据えての考えだったのだろう・・


 ただし・・高校を卒業する頃に僕の心に強く芽生えていた想いと言えば


 「祖母・母・姉に囲まれて育った自分は、きっと女系家族特有の資質を持っているはず


 その事が将来の自分、社会に飛び出した自分にマイナスなポイントとなるのでは?


 そんな事態をまねかないためにも、出来るだけ早い時期に家を出るべきではないか


 早いうちに1人で生活する、すべてを自分で判断する環境を選ぶべきなのでは・・


 という「自立」への想いなのであった


 

 

さて、お茶をする母と、そこに通う生徒さん達との日常が続く中で


「茶室」にとって必要な環境という事が話題に出る事があった


例えば「茶室に入る前に目に入る景色」が、味気ないコンクリ-トや隣家の壁などでは


気分的にム-ドが無さすぎるだろう


母も、そこまでは考えずに家を造ったのだが・・こうなってみると・・


ある日、近所の大工さんにたのんで、小さな池を作り、周りに植栽を植える相談をしていた


僕は言った「母ちゃん!池とか植木とか僕がやろうか?友達に左官屋さんの息子がいるし」


大した広い邸宅なんてモノではないけれど、玄関先にスペ-スがあって


そこに小さな池を作り、道路に面した部分に小規模な生け垣みたいな植え込みを・・・


 

 

手づくりの小さな池には友人が「小型の鯉」を入れてくれた


その周りに背の低い竹と紫陽花を植えてみた


母は手を叩いて喜んだし、生徒さん達からも「雰囲気よくなりましたねえ」と褒められた


僕はセンスはともかく・・・こんな事が大好きな少年期だったのである


*数年後に大きな台風に見舞われて・・池も植木も無残に消滅してしまった


 

 

*画像は現在僕の仕事机に飾っているコ-ヒ-の木


 このコ-ヒ-の木は3年目を迎えて、この春には、ほぼ、葉がつかなくなり


 まさに枯れて終末を迎えているかのような状態だった


 僕は、せめて、小鉢のような狭い環境ではなく、少しでも自然に近い雰囲気に


 戻してみようと思い、ベランダの生け垣の片隅に植え替えてみた


 6月頃には、やはり無理だったか・・という状態で、葉もつかないし


 木も枯れている・・ような・・景色だった・・が・・・


 8月の終わり頃だったか・・・枯れたと思っていた、やせ細った木に緑の芽が見えた!


 僕は歓喜した・・やった!・・生き返った・・こいつ死んではいなかった!


 元気だった頃に、小さな白い花を咲かせて喜ばしてくれた「コイツ」だ


 この冬も出来るだけ陽当たりの良い所に置いて来春には又・・広い所に植え変えて・・


 ・・・アンタ・・ホンマに・・マメやねえ~・・


 えっ?アンタって・・俺のこと?「コ-ヒ-って豆でしょう・・」お後がヨロシイようで


          2024年10月25日  拓郎