TAKURO YOSHIDA
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ラジオの青春

そもそも僕が音楽に興味を持つようになったのは・・始まりは中学生の頃という事になりそうだ


中学2年の時に音楽担当の先生が、それまでの常識だったピアノでの合唱指導ではなく


その先生の得意な楽器だという事で、アコ-ディオンを使っての唱歌レッスンだったのである


それは僕たち生徒にとっては大変に刺激的で・・時には授業が楽しみにさえ思える事もあった


歌う曲も普通の教科書的なものばかりではなく、時には歌謡曲とか流行歌を歌う日もあって


とても「学校に居る時間」とは思えない、別な空間を感じさせる授業だったのだ


ここで先生が僕達に歌わせる歌謡曲や流行歌などは、歌う僕たち生徒の心に率直にしみ込んで


教科書の、いわゆる学校唱歌などとは違い、ごく自然に記憶の片隅に残り続ける事になったと思う


 

学校での音楽に触れる環境が上記のようであった事・・と合わせて・・


僕には家庭内にも、大きな「音楽の種」が芽生えつつあったと言えるだろう


それは・・この事はこれまで、詳しくは語ってはいない?と思うのだが「兄の存在」なのである


兄は鹿児島のラ・サ-ル高校から立教大学の政経学部に進学した、いわばエリ-トで


父の期待を一身に受けながら上京した事だろうと推測できる


父は後年は鹿児島で「県の農業小作民史」のような書物を書いていたが


学歴とか「そういう形式ばった事」においての自分の経歴に大いなるハンデを感じていた


だからであろう・・長男の未来には計り知れない程の期待をしていたのだった


(末っ子の拓郎は病弱だし、長男と14才もかけ離れた息子は・・期待とは遠い存在だったようだ)


 

兄も大学へ入学した頃は勉学1本に取り組む覚悟だったと思うのだが・・


東京と言う環境が「そうさせた」のか?詳しい経緯は僕も聞かされていないけれど・・


それこそ父でなくとも、母も驚き!をかくせない道へと進んで行くのである


それは当時、日本でも流行の先端を行く「お洒落とも言える音楽」ジャズへの傾倒だったのである


当時の日本の音楽事情については、僕自身も後に音楽誌などで、その経緯や歴史を知るのだが


有名な中村八大さん達の活躍で東京の大学生たちの中では大きなブ-ムとなっていたそうだ


(八大さんと言えばNHK「夢であいましょう」の音楽で有名、世界的大ヒット「上を向いて歩こう」の


作曲者であり、日本のポピュラ-ミュ-ジックブ-ムの立て役者で、ジャズピアニストとして有名)


兄が、このブ-ムにのめり込んで行ったのも「時代」という空気の流れに逆らえなかったのかも知れない


 

しかし、兄の音楽歴は大学へ入学してからという事になり・・あきらかにキャリア不足であったのと


はたして彼に音楽的な才能があったのか?という根本的な疑問も・・父でなくとも持った事だっただろう


大学時代はアルバイト的に都内の音楽喫茶(あの時代には広島にも2軒あって、昼間から大学生中心に


シャンソン等を歌い合うという・・今では考えにくい空間だった)などでバイト的にピアノを弾いていたらしい


卒業して会社勤めをするのか?と思いきや・・やはり飛びこんだジャズの世界への未練は断ちがたく


1枚のアルバム(LP盤)を発売した・・(このレコ-ド会社名は全く聞いた事が無かった)


広島へも郵送されたLP盤を聴いた時に・・僕は・・子供心に(さしたる音楽の知識も無いまま)首をかしげた


「これってジャズじゃない!」


テレビやラジオの音楽番組でたまに目にし・耳にしているジャズは「こんなのじゃ-ない」と感じたのだ


アルバムにはライナ-ノ-ツが書いてあった(誰が書いたのか?さえ記してなかった)


「水木哲郎は間違いなく日本のセロニアス・モンクである、彼のプレイからほとばしる自由なプレイは・・・」


水木哲郎とは我が兄・吉田哲郎の芸名だった(後に父は吉田の姓を使わなかった事でも怒っていた)


まだ音楽の「何たるや」もわかっていない僕でも「ジャズって、こんなプレイはしない」と感じたのだ


またアルバム内の選曲も「ジャズではない」・・あまりにも「音楽の知識が低い人達が作ったアルバム」


と言わざるを得ない内容だったのである(兄のプレイするピアノはアマチュアレベルと感じた)


 

このアルバムが売れる事はあり得ないし、レベルの低さは「失笑もの」だった事もあり・・


兄は、ここから音楽への夢を断ちきって・・新たなる社会人としての道へ、再スタ-トを切る事になる


立教大学時代の仲間たちと共同出資で空調機器関連の会社を立ち上げ、亡くなるまで普通の社会人として


また、平凡な家庭人として一生を終えたのだった


 

*画像は・・ある時、兄がガ-ルフレンドを連れて広島へ遊びに来た事があった


 彼女は東京のナイトクラブで働く女性で、それは・・もう・・素敵な!それこそ東京の香りいっぱいの


 魅力的な女性だった(まだガキの僕だが・・生まれて初めて目の前にする都会の女性に


 完全に心と魂を破壊され、何もかもが雲の中での出来事にしか見えない日々が続いた


 母も初めは彼女の職業などに不安を隠せない対応だったのだが・・


 ひと晩だけ二人で布団を並べて寝ながら・・色々と「ぶっちゃけ話し」をした翌日から


 まるで旧知の仲であるような「変貌ぶり」で、事あるごとに兄に・・さりげなく・・しかし・・しつこく(笑)


 「アンタあの人いいわよ、お嫁さんにしちゃいなさい、アタシはあの人の事お気に入りだよ」と告げていた


 ある夜、兄が彼女と寝泊まりしている部屋から「拓ちゃ-ん!ちょっと来てよ-!」と呼ぶ声が・・


 「何だよ-・・ボク・・今・・受験勉強中なんだからサ-・・」とシブシブ(しかし嬉しくて)部屋へ行ってみて!


 「・・・・」だった・・・・!!


 東京の香りプンプンの彼女は「真っ黒で少しスケスケな・・今は見ない(と思う)スリップ姿」で


 兄とタバコを吸いながら「拓ちゃん・・タバコ吸う?」


 ・・・ボクは「生きた心地がしなかった」のだった(苦)・・・(理由は皆さんの想像通り・・だと思います)


 

 ある日「拓ちゃん、広島の繁華街に連れて行ってよ!すっごく楽しみにしてたんだ」と彼女にたのまれて


 二人だけで広島の中心街「八丁堀」から「縮景園」まで歩いた・・僕は意味もなく「鼻が高い」気分だった


 それが、生まれて初めて、若い女性と肩を並べて街中を歩く!という・・まあ・・第三者から見れば


 「デ-ト」と思われてもいい・・嬉しくて心臓が破裂しそうな瞬間だったのだ


 (でも、まあ、誰が見たって・・デ-トには・・見えないよなあ~(涙)


 

 兄と彼女は・・その後2~3年は交際が続き・・母のおもわく通りに結婚か・・と僕も思っていたのだったが


 ある時期から、彼女の話題が広島に入って来なくなる


 二人は同棲生活を続けていたが・・どうやら彼女の方が・・その生活に見切りをつけたようだった


 

 

 「となりの町のお嬢さん」はフォ-ライフ発足後の僕の第1弾という大きなハンデを背負ったシングルだった


 ともかく「クソな理屈や、ヤボな世評」などを一掃するには「売れなければならない」


 そして「売れれば」すべてが川の流れの中に消えて行く


 新曲のテ-マを捜して六本木の行きつけのピアノ・バ-で飲み仲間のマスタ-と昔話をしている時


 目の前にあるピアノを見ながら僕が「マスタ-!ム-ンリバ-やってよ」とリクエストした


 彼が歌うヘンリ-・マンシ-ニの名曲「ム-ンリバ-」を聴いている時に・・「アッそうだ!!」と浮かんだ


 ピアノだ!・・兄貴もピアノ弾き・・だった・・そして・・あの人・・あの心を「かきむしる」ほどに


 僕の未熟な心を悩ませた女性・・あの青春だ!・・あれは間違いなく「ヒット曲のテ-マになる」


         2024年10月9日  拓郎