今作も何曲か一緒に制作させて頂き改めて思いましたが愛さんはまさに映画監督になれるのではないかぐらいの発想の豊かさで驚かされました。 女性の持つ大人の魅力、恋の駆け引き、何気ない日常、誰もが持つ人生の苦や喜び、そんな一瞬一瞬を写真にしコラージュしたような美しく、儚く、そして力強い作品だと思います。 聞き終わった後女性ってこう思ってたり感じてんだと少し心の中を覗きこんだ気持ちになってしまった自分。 恥じる事は無い、男性の皆さんも聞いて女性心を勉強しよう。
恋愛でも仕事でも子育てでも介護でも、買い物でも電車に乗ってもちょっと外に出てもとにかくどんな場にも人間がいて私たちは常に、どんなに引きこもっていても自分以外の誰かと関わって行かざるを得ないわけだがそこでのかかわりはすべて部分的なものであきらめなければならないことが嘘みたいにたくさんある。 一人一人に100の愛は求められない、少しだけ、かつ一時的にしか求められない、ということを私たちは、 肌身を切りつけられるような寂しさを経験して、おぼえていく。 経験からの賢さは、「部分的にしか求められない」ことで納得しようとする。「部分」で踏み止まれる、あきらめられるようになる。 でもその一方で、あらゆる関わりと情愛が「部分的」「一時的」であることにどうしても納得しきれない。怒りや苛立ち、情熱と絶望が消えない。 部分的にしか手に入らないことへの理解と諦め、怒りと孤独のあいだであえて潔く吹っ切ることもせず、非現実的な夢も見ず、拗ねもしなければ逃げもしない、前向きでも後ろ向きでもない、今ここにあるものだけに居定まろうとするという、ごく正直な現実が詩はもちろん、音楽の中になまなましく描かれていて、美しかった。 でも、この作品のもっとも美しい点は描かれていることがすべて、現実には一切語られていないだろう情景だ、ということだった。 これらの思いはすべて、ベタな日常生活のあくせくの中に沈黙で封をされて閉じ込められているのだろう、ということだった。 現実には無言の中に押し込められつづけているしかないものを描き出しているその切実さが、美しくかんじられるのだろう、と思った。 私たちは黙っているので黙っているからこそ、強烈に感応するのだ。
アーティストが変化をしていく過程を僕は美しく感じる。 街で流れている曲を自然と聞き、大塚 愛さんを知った時と、今の大塚 愛さんの曲は違う。 どちらがすごいかなんてない。両方素敵だ。 とどまろうとしない姿、歌声は美しい。
さくらんぼじゃない! わたしが「大塚 愛」を好きになったきっかけ コメントの続きはこちら
純度の高いHONEY(はちみつ)は甘いだけじゃない。その中毒性はむしろ、口に入れた時にふわりと広がる妖しい香り、そして少しの苦味にこそある。 大塚 愛の甘くも、たおやかな大人の品と色気をはらむサウンドもやはりそういった類いのものらしく、気付いた時にはもう彼女に侵食されている。 オープニングの「HONEY」からもう既に罠にはかかっているのだが、「私」や「サクラハラハラ」の様なデジタルサウンドでさえも、奥から滲み出る“肌感”が心地よくまとわりつき、聞けば聞くほど味わい深い。耳元で優しく囁く様に歌い出す「モノクロ」は、曲名に反して僕の周りの景色を色鮮やかにしてしまう。 変容を重ねてきた大人の女性にしか表現できないモノがこのアルバムにはあって。素直に恋を楽しむ無邪気さの一方にある駆け引き、切なくやるせない感情、心に秘めた思い。そして、数えきれない複雑な感情が渦巻く中で、ありのままに感じながら生きる自分自身を包み込む強さと優しさ。 彼女の詩からは、決して捉えきることができない女性のあらゆる表情が顔を覗かせる。 そして、そういったものたちが全部ぎゅうっと凝縮された"蜜"の味をした彼女の歌声。 もう忘れられないやん、大塚 愛。
レコーディングの日、フレーズに対して "もうちょっと大熊かな" "いや、それよりも子熊!" "いまのクマがベスト!" など、2人にしかわからない"クマ感"を共有しながら作り上げていったのは、とても良い思い出です。
今作も何曲か一緒に制作させて頂き改めて思いましたが愛さんはまさに映画監督になれるのではないかぐらいの発想の豊かさで驚かされました。
女性の持つ大人の魅力、恋の駆け引き、何気ない日常、誰もが持つ人生の苦や喜び、そんな一瞬一瞬を写真にしコラージュしたような美しく、儚く、そして力強い作品だと思います。
聞き終わった後女性ってこう思ってたり感じてんだと少し心の中を覗きこんだ気持ちになってしまった自分。
恥じる事は無い、男性の皆さんも聞いて女性心を勉強しよう。
恋愛でも仕事でも子育てでも介護でも、買い物でも電車に乗ってもちょっと外に出てもとにかくどんな場にも人間がいて私たちは常に、どんなに引きこもっていても自分以外の誰かと関わって行かざるを得ないわけだがそこでのかかわりはすべて部分的なものであきらめなければならないことが嘘みたいにたくさんある。
一人一人に100の愛は求められない、少しだけ、かつ一時的にしか求められない、ということを私たちは、 肌身を切りつけられるような寂しさを経験して、おぼえていく。
経験からの賢さは、「部分的にしか求められない」ことで納得しようとする。「部分」で踏み止まれる、あきらめられるようになる。
でもその一方で、あらゆる関わりと情愛が「部分的」「一時的」であることにどうしても納得しきれない。怒りや苛立ち、情熱と絶望が消えない。
部分的にしか手に入らないことへの理解と諦め、怒りと孤独のあいだであえて潔く吹っ切ることもせず、非現実的な夢も見ず、拗ねもしなければ逃げもしない、前向きでも後ろ向きでもない、今ここにあるものだけに居定まろうとするという、ごく正直な現実が詩はもちろん、音楽の中になまなましく描かれていて、美しかった。
でも、この作品のもっとも美しい点は描かれていることがすべて、現実には一切語られていないだろう情景だ、ということだった。
これらの思いはすべて、ベタな日常生活のあくせくの中に沈黙で封をされて閉じ込められているのだろう、ということだった。
現実には無言の中に押し込められつづけているしかないものを描き出しているその切実さが、美しくかんじられるのだろう、と思った。
私たちは黙っているので黙っているからこそ、強烈に感応するのだ。
アーティストが変化をしていく過程を僕は美しく感じる。
街で流れている曲を自然と聞き、大塚 愛さんを知った時と、今の大塚 愛さんの曲は違う。
どちらがすごいかなんてない。両方素敵だ。
とどまろうとしない姿、歌声は美しい。
さくらんぼじゃない! わたしが「大塚 愛」を好きになったきっかけ
コメントの続きはこちら
純度の高いHONEY(はちみつ)は甘いだけじゃない。その中毒性はむしろ、口に入れた時にふわりと広がる妖しい香り、そして少しの苦味にこそある。
大塚 愛の甘くも、たおやかな大人の品と色気をはらむサウンドもやはりそういった類いのものらしく、気付いた時にはもう彼女に侵食されている。
オープニングの「HONEY」からもう既に罠にはかかっているのだが、「私」や「サクラハラハラ」の様なデジタルサウンドでさえも、奥から滲み出る“肌感”が心地よくまとわりつき、聞けば聞くほど味わい深い。耳元で優しく囁く様に歌い出す「モノクロ」は、曲名に反して僕の周りの景色を色鮮やかにしてしまう。
変容を重ねてきた大人の女性にしか表現できないモノがこのアルバムにはあって。素直に恋を楽しむ無邪気さの一方にある駆け引き、切なくやるせない感情、心に秘めた思い。そして、数えきれない複雑な感情が渦巻く中で、ありのままに感じながら生きる自分自身を包み込む強さと優しさ。
彼女の詩からは、決して捉えきることができない女性のあらゆる表情が顔を覗かせる。
そして、そういったものたちが全部ぎゅうっと凝縮された"蜜"の味をした彼女の歌声。
もう忘れられないやん、大塚 愛。
レコーディングの日、フレーズに対して
"もうちょっと大熊かな"
"いや、それよりも子熊!"
"いまのクマがベスト!"
など、2人にしかわからない"クマ感"を共有しながら作り上げていったのは、とても良い思い出です。