SKY-HI

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「FREE TOKYO」リリース記念対談 / SKY-HIといとうせいこうが語る “ヒップホップ”

現代社会におけるヒップホップの強み

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例えばチャンス・ザ・ラッパーが地元の学校に1億円ぐらい寄付したり、ロジックが曲(“1-800-273-8255”)を通して自死率減少に貢献したり、ケンドリック・ラマーの活動自体もそうですけど、アメリカにおける『ヒップホップと社会の関係性』は、ストリート上だけでヒップホップが行なわれてた頃から変わらないような気がします。ジェイ・Zが、ドラッグ・ディールのラップなどを通して『俺はこうやって成り上がっていった』って伝えるだけで救われてきた人が確実にいたと思う。ヒップホップでも大衆性を追い求めすぎると弱まってしまう部分はあったと思いますけど、ポップ・アーティストが『今が辛くても負けるな、頑張れ!』って歌ってる脇で、ジェイ・Zが『俺は昔、マジでこんな感じだったけど、こうやって頑張っていったらこういう風に成功できた』っていう風に歌った方が心に刺さるっていう人も確実にいると思うんです。それは、ヒップホップの持つ地域性だったりヒップホップとコミュニティとの結びつきが強かったりするからだとも思いますけど。そういった面で今、一番力を持ってる音楽ジャンルはヒップホップだと思います
いとうせいこう
そういうモノに励まされるんだよね。キレイ事じゃなくこのカッコ良さのままで出来るんだ、っていう。『こんなこと、ヒップホップでしか出来ないじゃん!』っていうのはあるよね。ヒップホップ以前だったらスピーチ/演説 -- 実際、ヒップホップ以前にラスト・ポエッツみたいな人たちがニューヨークにいて、集団で、かつほぼアカペラで公民権運動だったり社会的なトピックをリズム中心で朗読してた。そういう風に、みんなで一緒に怒りを表現したり、社会的な現象を説明しようとしたら、一旦“メロディ”がなくなるんじゃないか?と思ってるんだ。で、それがヒップホップの大元にある構造なんだとしたら、この音楽が常に活き活きとしたモノであり続けるためには、元からあったこの力 -- 他の音楽形式ではありえない何かを常に新しく汲み出してくる人がいないといけない。そういった人たちが、今、日高君が挙げていたようなラッパーなんじゃないかな?
SKY-HI
多分、“社会”という言葉を使っちゃうから分かりづらくなってしまう部分があると思うんです。要は社会=人じゃないですか。人と人が関わり合ってるモノを社会と呼んでるだけだし。例えばチャンス・ザ・ラッパーは自分の娘、ケンドリックは地元の仲間たち、ロジックだったら昔の自分自身 -- みんな人に対して愛情を持ってるんですよね。よく言ってるんですけど、この状況の日本でいろんな人がいる中で、自分のステージに来てくれたリスナーがいたら、そういう人たちを幸せにしたいじゃないですか。その愛情は、今挙げたラッパーたちが他者に注ぐ愛情と同じだと思います。自死率の高さからも分かりますけど、日本の“精神的貧困”は相当ヤバイ状況だと思うんです。そういった気持ちの貧しさや荒み方に対して何とかしようと思えば、必然的に(行動に)社会性が帯びてくると思うんです。だから、僕にとっては『愛のあるモノ=社会性のあるモノ』って言われてるだけな気がしてきました。だから、言ってしまえば全部ラヴ・ソングなんです(笑)
いとうせいこう
それはすごく重要なことで、“社会”っていうこの漢字二文字は、それこそポップスではなかなか歌えないですよ。だから、“社会”じゃなくて『君と僕』とか『誰かと誰か』みたいになるんだけど、そうなると“社会”という言葉自体が使いにくいモノ、上のエライ人たちが使う言葉みたいに聞こえちゃうんだよね
SKY-HI
そうそう、それがすごくイヤなんです
いとうせいこう
“社会”っていう言葉は漢語が起源だけど、大和言葉だとなかなか対応する言葉がない。江戸時代に日本主義になって『大和言葉が一番いい』という考えが出てくるし、戦前になるとそれが支配に使われた。感覚的なモノだけ扱って論理は要らないとなれば、社会のことを考えることが出来ない。大和言葉だけだとそうなるように、日本語が作られてきたと僕は思う。だけど、僕がヒップホップを聴いて凄いと思ったのは、自分たちが何かを世の中に向けて訴えたいときに、エライ人たちだけが使うようにされてきた言葉も平民の自分たちが使う言葉も関係なく、全部一緒でいいんだ!っていうこと。『社会について何か歌いたい』ってなったら、あらゆる言葉が使えるんだよ。ポップスにはそれが無理だった。コレは革命的なことだったんだと思います。僕は、“社会”という言葉は支配している側の人たちが『平民にこの言葉をあまり使わせない方がいいな』と思って、意図的に難しくしてたのではないか?と考えてるわけで。ところが、今年亡くなられた金子兜太という社会性俳句/現代俳句のトップだった人がいて、昔から尊敬しつつお付き合いしてきたんだけど、一昨年ぐらいにこういう話をしたんですよ。『俳句の中では社会について歌いにくい単語が多いでしょ?』って訊いたら、兜太さんは『違う』と。『あらゆる日本語は詩語だから、“歌えない”なんてことはない。自由に歌うんだ』って境地に彼は達していて、ドカーン!ときちゃったんだよね。そう考えたら『じゃあ俳句ってヒップホップじゃん!』って思うし
SKY-HI
それはすごく腑に落ちました。そもそもどんな手法でも何でも歌えた筈ですよね。僕の目には、逆に大衆的なJ-POPの方が異常に政治的/社会的/宗教的に見えます。『こういう風にしないといけない』とか『こういうモノが受け入れられる』とかが垣間見れるラヴ・ソングの方が政治的だし宗教的です。たまたまTwitterで見たんですけど、誰かが『日本は“普通教”というカルト宗教が進行してる』って言ってたんです。でも、だからと言って僕は大衆性だったり今の日本の空気だったりといったものに背を向けたくない
いとうせいこう
そういう(大衆性を求めている)人たちにも話しかけたいんだよね
SKY-HI
そこの“凝り”をちゃんとほぐした上で表現したいんです。今、お話ししてて自分で納得しました
いとうせいこう
日高君の話を聞いて、僕もまた分かったよ。確かに、『人は愛し合わないとおかしいよね』とかポップ・ソングでそう歌うかもしれないけど、『愛せないってどういうことなんだろう?』『なんで人を愛するのって難しいんだろう?』みたいなことはあまり細かくは歌わないよね
SKY-HI
そうですね。『普通でないこと』に対して人が感じる罪悪感とか、それこそちょうど昨日、『夫のちんぽが入らない』をたまたま読んでたんですけど(笑)、アレも女性が持つ罪悪感についての話だったりしますよね。そういう意味では、マンガはそういった表現にも挑んでる
いとうせいこう
そう、マンガは今頑張ってるんだよねー
SKY-HI
凄いですよね。『健康で文化的な最低限度の生活』や『逃げるは恥だが役に立つ』にもそういう要素がありましたし