STORY
「これからの日本人に英語は必要」と父親に勧められ、5歳からアメリカンスクールに通う。当時としてはかなり珍しいことだった。本人も入学初日は「なんで俺がこんな白人ばっかりの学校に?」と思うが、その日のうちに馴染む。もともと誰とでも仲良くなれる性格でもあった。スポーツ少年で、小学時代は草野球、リトルリーグ、ソフトボールに打ち込む日々を過ごすc。そんな中、10歳の時に音楽と出会う。
「ビートルズの映画『ヤア! ヤア! ヤア!』を観て度肝を抜かれ、これやりてえ!って(笑)。無理を言って次の日に初めてのエレキと初めてのレコードを買ってもらった。ビートルズの4曲入りのEPでした」。
『ヤア! ヤア! ヤア!』は10回以上観た。ビートルズのカッコよさに心酔していた。
先輩に弾き方を少し教えてもらい、あとは独学でギターを習得してからはバンドに目覚める。アメリカンスクールだったこともあり、いち早く欧米の音楽情報を入手。中学時代はビートルズの他にアニマルズ、ストーンズ、サンタナ、ジミ・ヘンドリックス、クリームなどを聴いてコピーにいそしむ。平日の放課後はバスケット、週末はバンドの練習かダンスパーティーで演奏する、というのがお決まりのようになっていた。
中学時代、高校は“国内最高”と噂の高かった東京のアメリカンスクールへ進むと決め、単身上京。バンドをしながらシーズンごとにフットボール、バスケット、野球をやり、週末は当時大人気だったゴーゴークラブのムゲン、ビブロスにも出入する、という高校生活を送る。
「クラブで演奏中のグループサウンズのメンバーに呼び入れられて飛び入りし、歌や演奏を披露することもありましたね」
しかし当時、目指していたのはメジャーリーガー。高2、高3と日本のアメリカンスクールのリーグでオールスターに選ばれ、一気に夢が膨らんだ。希望していたアメリカの野球の名門大学に進学はするが、圧倒的なレベルの違いを痛感して約2年で断念。卒業後は大学で学んだ経営経済の知識を活かし、レストラン事業をおこす。1年目に仕事のストレスから身体を壊し経営の仕事は自分に合わないと判断。音楽家としての道を模索し始める。当時、日本からいくつか誘いもあったが、なびくことはなかった。「音楽家としての実力より、バイリンガルだとか経歴が宣伝文句になるのがわかっていたから、それはいやだな、と。アメリカでデビューして、“外タレ”として来日したかったんですよ(笑)」。
83年に人気バンド・Kalapanaにベーシストとして加入し、その翌年にKalapanaの公演で来日するまでするまでの約6年はいわば“下積み生活”。KalapanaのMACKEY・FEARYのソロプロジェクト“NINE LIFE”をサポートし、生活費を稼ぐために夜はあちこちのクラブでバンド演奏をしていた。
「一台の車にメンバー4人と器材を積んで一時間半かけてクラブに行って、夜10時から朝5時まで仕事をする。終わったら吉野家に行って牛丼食べて、通勤で渋滞の対向車線を横目で見ながら車を飛ばして帰る・・。不思議と“俺、一生、こんなことやっているのかな”と不安になったり焦ったりしたことはなかった。“いつか舞い込んでくるラッキーをものにするための準備を今、俺はしてるんだ”って思ってました」
Kalapanaへの加入前後から、忙しさはどんどん増して行く。Kalapanaの活動がオフの間は、ジェイ・グレイドンなど他のアーティストのツアーサポートや音源制作をサポート。日本からの仕事のオファーも徐々に増え、90年代半ば、globe、安室奈美恵などの音楽ディレクターを引き受けてからはさらに多忙に。それぞれのツアーとレコーディングが重なると、2、3時間の睡眠で数週間を過ごした。充実した日々だったが、心に影が射すこともあった。
その後、2001年矢沢永吉のツアーにベーシスト兼バンドマスターとして参加し、04年からはEXILEの音楽ディレクターを務めている。ベーシスト&音楽プロデューサーとしての実績と実力はもちろん、フェアで温かい人柄でアーティストだけでなく、幅広いジャンルの人々の信頼を集めている。
「波乱に富んだ人生を送ってきたけど、今のところ、めちゃくちゃ幸せ。まだまだやる気は十分なので、これからも素晴らしいアーティストたちと、おもしろいことができるといいな、と思っています」
“僕の人生そのもの”と語る音楽で、さらにアグレッシブに人生を楽しんで行こうとしている。