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45TH MEMORIAL

DJ KOOの始まり

ギタリストになりたかった。
挫折から始まったDJとの出会い

「18歳の時に、DJになりたいと思ったんですよ。
もともとはロックバンドの
ギタリストになりたかった。
コンテストとかも出たりしていたんだけど、
芽が出なくて。
でもミュージシャンにはなりたかった。
それで、高校を卒業したあと、
たまたま遊びに行ったディスコで目にした
DJがかっこいいなと思って。
人がごった返すジャングルのような場所で
ブースという居場所をもって
お客さんを
音楽で盛り上げている姿に惹かれたんですね。」

DJ見習い時代

「DJになったといっても、お客さんの前ではすぐには回せてもらえないんですよね。ディスコでウェイターのアルバイトをしながら、どんな曲がフロアに流れていて、盛り上がっているのかとか、どんな喋りで店内を盛り上げているのかとか合間に聴きながら、閉店した後にやっと練習をさせてもらう感じなんです。
当時の洋楽って、ディスコじゃなきゃ聴けませんでしたから、貴重な時間だったんですよ。
渋谷、蒲田、上野…いろいろなところのディスコを周りました。」

歌舞伎町のディスコB&Bで鍛えた
DJとしての腕前

「プロのDJとして、歌舞伎町のディスコB&Bで回し始めるんだけど、夕方の6時から朝の5時まで働くという過酷な現場でね。
高校のラグビー部の時に鍛えたガッツだけで乗り切っていましたね。
常にフロアが盛り上がっていないと、お店のボスに怒られるという感じで。
チークタイムの時でさえ、盛り上がっていないと怒られるんですよ。
だったら、どんな曲を流そうかとか、フィニッシュホールドをどの曲に持っていこうとか、フロアを見ながら、セトリをものすごく意識するようになりましたね。
すると洋楽だけじゃなくて、意外に当時の邦楽でもいい感じになるんじゃないかと思って、杏里さんの『悲しみが止まらない』をかけてみようとか、お店の定番曲を作ってみようとか、いろいろと考えてやっていました。」

The JGs結成秘話

「B&Bが人気のハコになってくると、レコード会社の人たちがうちの曲をかけてほしいと言って来てくれるんですね。ディスコプロモーションっていうことなんだけど、当時は洋楽を浴びるように聴けるのはディスコしかなかったから、うちの店にどんどん曲のサンプル盤がくると。で、それをそのまま流してもいいんだけど、サビをもうひと回ししたほうがいいなとか、イントロをもっとキャッチーにしようとか、曲と曲のつなぎをかっこよくしようとか、DJ目線で思い始めるわけですね。それをカセットテープで編集して、リミックス盤みたいな感じにしていたんです。で、それが人気になって、一人じゃ難しい、チームで制作しなきゃということになって、作ったのがThe JGsってことなんです。

日本で最初のリミックス・ユニットってことになるのかなあ。ファッションブランドでも有名になったdj hondaさんやFM大阪でラジオDJとして活躍している鈴木しょう治さんとかと一緒にやったんだけど、僕らが一番世話になったのは、三好史さんでしたね。彼はマニピュレーターとして僕らのコンセプトを具現化してくれる存在だったんですけど、コンセプトを形にするということにおいて、彼なしではThe JGsのNON-STOP MIXはできなかったといっても過言ではないですね。」

TRFの
リーダーとして

衝撃だった 小室哲哉との出会い

「初めて会ったときですか?小室さんから人のオーラというか、衝撃というか、物静かな方なんですけど、目の前にアインシュタインがいるような感じがしたんですよね。当時、小室さんはいろんな機材を持っていて、ミニムーグのシンセを使って、ベースの音をゼロから作っていたりして、この人は未来を握ってるんじゃないかっていうぐらいの衝撃を受けましたね。で、小室さんにとにかく明日もちょっと見学に来ていいですかって言ったら、いいよって言ってくれたんで。で、そこから9カ月、毎日スタジオに通ったという感じなんです。最初は、ただいるだけだったんですけど、小室さんが書いたメモを保管しておくとか、小室さんの作業が終わった後のデータをもう1回整理していました。

trfが立ち上がるくらいからは、小室さんがご自身のスタジオを作りたいっていうことで、一緒にいろんなスタジオに行って、ミキサー卓だとか、機材を見て回ったこともありました。DJ時代はDJ機材だけを見てきたんだけど、小室さんとの経験から、いろいろなレコーディングのノウハウであるとか、音に携わるための経験っていうのをさせてもらって、すごくやっぱり力になりましたね。」

trfデビュー DJという存在

「trfとしてデビューしたころ、一番聞いたのは “DJ?後ろのあの人何してるの?” って言葉でしたね。
ディスコDJから、メンバーのひとりのDJとしてテレビやメディアに出ていくことになるんですけど、
視聴者の皆さんからしたら、音楽番組でDJを見るのはおそらく初めてに近かったんじゃないですかね。
今でこそ、DJのターンテーブルやミキサーといった機材は見慣れていると思うんですけど、
当時は新しい概念すぎて、どう受け止めてもらったらいいかわからないという状況がありましたね。
“後ろで演奏中にほかの曲をヘッドホンで聴いている奴がいる!“ってさんざん言われましたしね。
僕も、実際どうしたらいいんだろうと。
実際にDJっていうと、実は音楽番組に出るときって、DJとしての仕事は全部終わっちゃっているんですよね。
曲のスタートボタンを押す、くらい。その仕事だって音楽番組だったら、
テレビ局の音効スタッフが押すわけだから、何もすることがないんですよ…。
一方で、DJ仲間たちからは、ああKOOは、芸能界に魂を売っちゃったんだとか、
そっち側の人になっちゃったんだねとか言われる始末。
なんだかお客さんからも仲間からも受け入れてもらえない板挟み状態になっていたんです。」

プレイするDJから魅了するDJへ

「そんな時、小室さんが言ってくれたのが、"KOOちゃんはDJとしてクラブで長い時間をかけて盛り上げてきたけど、trfでは3分間でDJらしさを見せてほしいんだよね"と。そこで、どうしたらいいかなって考えて、だったら、機材をいっぱい置いて、つまみをいじるときもオーバーにいじって、思い切り手を挙げてアクションして、リズムもガンガン取りながらみたいな、見た目を大きくしていこうと。見せる演奏で魅了するスタイルでいこうとやり始めたんですね。当時、DJってクールでなきゃいけない、エアホーンをぶんぶん鳴らすなんてもってのほか、っていう感じだったんですけど、trfとしてテレビやライブに出ていくようになって、グルーヴをお茶の間や客席の皆さんに届けるにはこの方法しかないって思って、トライしたんですね。
 数百人の前でしかプレイしていなかったDJが、ライブだと何万人の前でプレイするし、テレビだったらそれこそカメラの向こうに何百万人って人がいるわけじゃないですか。そんなことをできるDJって世の中探してもそんなにいないし、そこを盛り上げていくという経験は、逆にDJとしてのスキルを高めてくれましたよね。」

ロックへの造詣が活きた
「SEE THE SKY ~月が地球にKISSをする」

「ミリオンヒットに恵まれたtrfの中で、ひとつ思い出になっているのが、『SEE THE SKY ~月が地球にKISSをする』ですね。この曲は、ミュージカル仕立ての演出がある曲で、メンバーがそれぞれ役割をもっている曲なんですけど、僕の出番はどこかなっていう曲でもあるんです、実は。でもその時、小室さんから言われたのが、”KOOちゃんは、ロックのスキルをちゃんとわかっているDJだから、この曲でもDJをしっかりやって欲しいんだ"って言ってくれて。ロックに関しては、小室さんとほぼリアルタイムでハードロックやブリティッシュロックを聴いていたこともあって、話が合ったんですね。この曲って、ロックなエッセンスが入っているんですよ。ダンスミュージックなんだけど、ライブではバンド演奏が入るし、グルーヴ感がロックなんですね。その意味で、ギタリストを目指していた経験とかがここで活きるんだ、人生に無駄なことなんてないなって思いましたね。」

DJ活動 学び直し

「90年代、特にtrfの活動が絶頂だった97年くらいまでは、とにかくレコーディングやツアーでまったく現場でDJできなかったんですね。うれしい悲鳴ではあるんですけど、実際6年くらい離れてしまっていたんです。それでちょうどセルフプロデュースになった98年ごろから、もう一度現場でDJ活動をやろうと。でも、現場を離れていたから後輩たちに、今現場でかかっている曲はどんなの?とか、どうつないでる?とか教えてもらって、いわばDJ学び直しみたいなことを始めました。
当時渋谷のフーラというハコが人気でそこで回していたんですけど、僕がDJブースに立つと、お客さんがわあって集まってきてくれるんですよ。DJ KOOを見に来てくれているんだって嬉しい気持ちなんですけど、一方で、顔じゃなく、中身のある選曲で踊ってほしいんだという気持ちになっちゃって、何を勘違いしたのかDJブースを真っ暗にしてプレイしたりとかしちゃったんですね。今思えば、そんなこと関係ないんですよね。お客さんは、純粋に遊びに来ているだけなんだから、僕の顔が見えようが見えなかろうがどっちでもいいんですよ。DJの世界でも腕はあるぞってことを僕が見せたいとか、そんなかっこつける必要なかったんですよ。なので、DJとして自然体でやっていけるようになるまで、リハビリにちょっと時間がかったりしましたね。」

EVENTS
IN 1992-1998

1992年(31歳) trf結成
1993年(32歳) 2月25日 trfデビュー
シングルGOING 2DANCE/OPEN YOUR MIND
アルバムtrf 〜THIS IS THE TRUTH
エイベックス所属アーティスト第1弾としてデビュー
1994年(33歳) 「survival dAnce 〜no no cry more〜」「BOY MEETS GIRL」がミリオンヒット
12月 第45回NHK紅白歌合戦初出場「BOY MEETS GIRL」
1995年(34歳) 「CRAZY GONNA CRAZY」「masquerade」
「Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜」
3部作連続リリース 5作連続ミリオンヒット
8月 DJ活動15周年
12月 日本レコード大賞受賞・第46回NHK紅白歌合戦出場
「Overnight Sensation ~時代はあなたに委ねてる~」
1996年(35歳) 12月 第47回NHK紅白歌合戦出場「LEGEND OF WIND」
1998年(37歳) trfデビュー5周年
TRFへ変更 小室哲哉プロデュースから離れ、セルフプロデュースに

50代を過ぎて
新しい挑戦

新機軸 バラエティに挑戦

「TRFの20周年があったあとに、ソロとしても頑張っていこうという中で、DJも続けていきながら、もともとお笑いも好きだったので、そういう仕事とのご縁があったらいいなと思ったんです。奥さんや娘も"今はバラエティのほうがいいよ、活動の幅が広がるんじゃない?"って背中を押してくれて。DJとしてのトークスキルを身につける意味もあって、落語も20代のころから好きではまっていたし、出てみようと。でも、最初はかっこつけてましたね。そうすると、逆にかっこ悪いんですよね、バラエティ番組では。無理に面白くしようとすると全然面白くないし、そりゃもう芸人さんのほうが圧倒的に面白いわけで、どうしたらいいのかなと思っていたんです。」

勇気ある所にチャンスあり!

「バラエティに出始めると、笑ってくれる人もいるんだけど、たたかれることもあって、"DJの仕事なくなったのか"とか"仕事選ばないな"とか散々言われたんですよね。なんでそんなこと言われなきゃいけないんだと思ったんだけど、バラエティの現場って一つの笑いを取るためにスタッフが一丸となって準備したり、大きなドッキリの仕掛けを作ったり、そこまでやるかって感じのスケールなんですね。それを目の当たりにしたときに、仕事選ばねぇなじゃなくて、俺は仕事選んでるぜ、これだぜー!って思えたんですよね。吹っ切れたというか、ね。ロケへの準備もしっかりするようになったし、ノートを使って一生懸命下調べをしたりしてね。そうすると応援の声が僕の耳にも届くようになってきたんですね。勇気ある所にチャンスありだなって思いましたね。」

DO DANCE誕生秘話

「今では、僕の代名詞みたいに使っている『●● DO DANCE!』ってセリフですけど、これもバラエティ番組で無茶ぶりされたときに、とっさに出たセリフだったんです。その時は、EZ DO DANCE!ってやったんですけど、例えるとIKKOさんのどんだけぇ~!みたいな感じですね。その後、EZ DO DANCE!だと曲の名前そのままになっちゃうから、その前後に言葉をつけて、『●● DO DANCE!』とか、『EZ DO ●●!』とかに変えていうようになりました。食レポのときは、おいしいDO DANCE!とかやると、元気な感じになってくるんですよね。今でいうと、DO DANCE構文ってことですよね。最近では小室さんも普通に使ってくれたりして、汎用性抜群なワードになりましたね。最近は、共演した後輩やタレントさんたちから生で聞けたー!みたいな感じで盛り上がってくれるようなことにまでなってきました。」

盆踊り、アイドル、
コマーシャル…
広がったDJの仕事

「バラエティはDJの仕事をホントに広げてくれましたね。音楽やDJでだけしか僕のことを知らなかった人たちが顔を覚えてくれるようになったし、いろんな世代の人たちも僕のことを知ってくれて、コラボレーション企画の声がたくさんかかるようになったんですね。盆踊り、アイドル、ゲーム、コマーシャルなど、KOOさんにぜひDJで盛り上げてほしい、化学反応を起こしてほしいって90年代の時にはなかったような広がりが出てきて。なので、DJの勉強は欠かさなかったですね。DJである以上、どんな曲とも一緒に盛り上がっていかないといけないから、J-POPだけじゃなく、アニソン、K-POP、ゲームミュージック、いろんなジャンルの曲を聴きこんで、期待以上のパフォーマンスをしようということで、必死に準備していますね。」

EVENTS
IN 2012-2025

2012年(51歳) エクササイズDVD「TRF EZ DO DANCERCIZE」が売り上げ100万枚突破
2013年(52歳) TRFデビュー20周年
バラエティに進出、お茶の間の人気者に
ヘッドホンをクリスタルにデコレーションし始める
2015年(54歳) 6月 けん玉をプロデュース
「DJ KOO from TRF avexミュージックけん玉」発売
8月 DJ活動35周年
2016年(55歳) 初の著書「EZ DO LIFE!」(小学館)刊行
2017年(56歳) 自身初『DJ KOO CLUB MIX -PARTY HITS MEGAMIX-』発売
9月初旬「脳動脈瘤」が見つかり大手術
2018年(57歳) 自身2枚目『DJ KOO CLUB MIX -PARTY HITS MEGAMIX 2-』発売
TRFデビュー25周年 accessとジョイントライブ@東京国際フォーラム
2019年(58歳) 8月 アフリカ国際会議TICADの前夜祭でアフリカ盆踊りを披露
11月 自身3作目となる洋楽ノンストップコンピ
「KING OF PARTY mixed by DJ KOO」発売
元スパンカーズのパオロ・オルティガ氏との共作を実現
2020年(59歳) 3月 自身4作目「オドレーJAPAN!~歴代オドレルJ-POP日本代表~」発売
※新型コロナ禍により、ライブ配信・無観客ライブに取り組む
8月 DJ活動40周年
2021年(60歳) 4月 大阪芸術大学客員教授、日本盆踊り協会「特別芸術顧問」に就任
(健康体操リバイバルダンス)
2022年(61歳) 9月 SAMとともに京都府京丹後市「いきいき健康長寿応援大使」就任
2冊目の著書「あと10歳若くなる!DJ KOO流 心・体・脳の整え方」(PHP研究所)刊行
2023年(62歳) 1月 テレビ朝日系ドラマ「必殺仕事人」出演
TRFデビュー30周年 日本武道館ライブ
2024年(63歳) 8月30日 SAMと結成したJ-RAPユニット『B.O.C (SAM & DJ KOO)』デビュー
2025年(64歳) 5月下旬 アナフィラキシーで緊急入院
8月 DJ活動45周年

これからの
DJ KOO

DJの魅力を
「最KOO」にしたい

「いま改めて、DJ活動45周年の感謝を感じていますね。
結婚もして、家族もできて、TRFがセンセーショナルな存在になって目の前のことを必死にやってきた積み重ねなのかなと思っています。
もちろんこの間に、病気もしたり、キツいこともたくさんあったけど、それでも僕を救ってくれたのは「DJ」と「音楽」なんですよね。
だから、応援してくださっている皆さんに感謝しているし、僕が皆さんを応援したいですね。
どんな時も、続けていけば、最KOOな瞬間に出会えるよって。」

日本屈指の「盛り上げ番長」、
世界へ、海外へ

「DJに始まって、夢だったアーティストだけじゃなくて、盆踊り、イベント、アイドルとのコラボ、
そしてドラマ出演やコマーシャルまで、45年で、ホントにDJの仕事が広がっていったんですよね。
今度はそれをさらに海外に広げていけたらと思いますね。
行ったことがない国がたくさんあるので、スケジュールにフランスとかマレーシアとか入ったらいいなあ。
J-POPを通じて、文化交流をいっぱいしていきたいです。あとは、
おめでたい時にKOOさんを呼びたいなっていう縁起物みたいな存在になりたいですね。海老一染之助・染太郎さんみたいな感じですね。」

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