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こちらからコンクールの様子がご覧いただけます
クラシック音楽界の最重要イベントの一つ、チャイコフスキー国際コンクール。名高いこの大会への出場をきっかけに世に名を馳せたアーティストは数知れず、ヴァン・クライバーンが1958年に歴史的な優勝を飾って以来、4年ごとに開催され続け、今年で第16回大会を迎える。
大会期間の6月17日から29日にかけて、モスクワとサンクトベテルブルグを舞台に228名の出場者が優勝にねらいを定め、しのぎを削る。そして、その先にはグランプリも視野にあるはずだ(1994年に新設され史上3名のみが受賞している幻とも言われる賞)。2019年大会は従来のピアノ、ヴァイオリン、チェロ、声楽に加え、木管、金管の部門が新設された。
2015年大会に引き続き、第16回チャイコフスキー国際コンクールもmedici.tvが公式ウェブ配信パートナーとして大会の全容をオンライン中継する。4年前の第15回大会では187ヶ国、13,000都市で再生回数1,000万回を記録。ここ日本では、クラシックTV.mediciがパートナーとなって全編を配信。
まさに歴史的な聖典、第16回チャイコフスキー国際コンクールをお見逃しなく!!
人工衛星スプートニクが地球周回軌道に打ち上げられた数ヶ月後に開催された第1回大会。その目的は明日の国際的スターとなるべきクラシック音楽家たちの養成、そしてソビエト連邦のクラシック音楽の伝統を世界に示すことにもあった。記念すべきその大会で、まだ若いアメリカ人アーティストが聴衆を魅了することになろうとは誰も予想だにしていなかった。優勝者を選出する時が来ると、審査員の一人がフルシチョフ首相に直接、伺う場面があった。
「彼が一番なのか?そうならば賞を与えよ。」
かくしてヴァン・クライバーンは審査員ドミートリイ・ショスタコーヴィチより金メダルを授与された。
冷戦開始から十年が経過した当時の世相の中にあって、ヴァン・クライバーンの演奏は人々に希望の光をもたらし、国境やイデオロギーの違いを超越していったのだった。
ヴァン・クライバーンについて▶
大会出場者の年齢は16歳から32歳まで。未来のスターを輩出することも多い。1966年の大会では、経験を積むことだけが成功の鍵ではないと16歳のピアニストが証明した。年長の演奏者たちを相手に彼が優勝を飾った瞬間のことが、のちに大会のプレスリリースでこのように語られている。
「その日、奇跡のようなことが起きた。まさか最年少のピアニストが、チャイコフスキーのコンチェルトを最もすばらしく弾いてみせるとは誰も思っていなかった。」
グリゴリー・ソコロフは大会史上最年少受賞者のタイトルを今も守り続けている。
「その日、奇跡のようなことが起きた。まさか最年少のピアニストが、チャイコフスキーのコンチェルトを最もすばらしく弾いてみせるとは誰も思っていなかった。」
グリゴリー・ソコロフは大会史上最年少受賞者のタイトルを今も守り続けている。
※Grigory Sokolov plays Bach, Beethoven and Schubert
※Valery Gergiev conducts Prokofiev – Daniil Trifonov performs the 1st Piano Concerto
今世紀を代表するスターの多くは大会に出場した経験をもつ。
■ ピアノ ヴァン・クライバーン、ウラディーミル・アシュケナージ、エリソ・ヴィルサラーゼ、ミハイル・プレトニョフ、グリゴリー・ソコロフ、ボリス・ベレゾフスキー、デニス・マツーエフ、ダニール・トリフォノフ、ほか
■ ヴァイオリン ギドン・クレーメル、ヴィクトリア・ムローヴァ、ウラディーミル・スピヴァコフ、ヴィクトル・トレチャコフ、パーヴェル・ミリューコフ、ほか
■ チェロ マリオ・ブルネロ、ダヴィド・ゲリンガス、ナサニエル・ローゼン、ナターリア・グートマン、アントニオ・メネセス、ほか
■ 声楽 ウラディーミル・アトラントフ、エレーナ・オブラスツォワ、ユリア・マトーチュキナ、エフゲニー・ネステレンコ、パータ・ブルチュラーゼ、デボラ・ヴォイト、ほか
過去の優勝者の映像 ▶
チャイコフスキー・コンクールと言えば豪華な審査員団。大会の始まりから夢のような顔ぶれを誇り、最初の金メダルを授与したのはほかでもないショスタコーヴィチ!これまでにムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ダヴィッド・オイストラフ、マキシム・ヴェンゲーロフ、プラシド・ドミンゴら名手が審査員として名を連ねてきた。2011年からはヴァレリー・ゲルギエフが組織委員長を務めている。
1994年、真に歴史に残る演奏をみせた者を称える究極の賞、グランプリが設けられた。委員長本人によって授与されるこの賞は一回の大会につき一名にしか贈られないばかりか、賞に値するパフォーマンスを審査員が認めなかった場合、受賞者不在のまま大会が終わることになる。幻の賞を勝ち取った音楽家は大会史上わずか三名:ソプラノ歌手ヒブラ・ゲルズマーワ(1994年)、ピアニスト ダニール・トリフォノフ(2011年)、そしてバリトン歌手アリウンバアタル・ガンバアタル(2015年)である。
※Daniil Trifonov on Camera (Unreleased)
■ #TCH1(1958年、第1回)第1回大会がモスクワで開かれる。部門はヴァイオリン・ピアノ。
■ #TCH2(1962年、第2回)チェロ部門が新設される。
■ #TCH3(1966年、第3回)歌い手もどうぞ!声楽部門が新設。
■ #TCH14(2011年、第14回)大会の拡大に伴い、モスクワとサンクトペテルブルクの二都市で開催されるようになる。
■ #TCH15(2015年、第15回)チャイコフスキー生誕175周年を記念した第15回大会は、medici.tvが世界187ヶ国、1,000万人もの視聴者にライブ配信。
■ #TCH16(2019年、第16回)従来の4部門に加え、木管と金管の2部門が新設。今回もmedici.tvが大会の全容を配信!
チャイコフスキーと言えば——くるみ割り人形、白鳥の湖、そして「悲愴」。だが、音楽家としての道を歩み始める前の彼が公務員だったことはご存知だろうか?また当時、チャイコフスキーの作曲した音楽は無価値なものとして切り捨てられていたというから驚きだ。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは1840年5月7日にロシアのヴャトカに生まれた。その時代の裕福な家庭の子供らしく、幼いピョートル・イリイチは厳格な教育を施された。5歳でピアノレッスンを受け始め、6歳になるころにはフランス語とドイツ語を母国語同然に話せたという。チャイコフスキーが早い時期から音楽への情熱を示していたにも関わらず、両親は10歳の彼をサンクトペテルブルクにある全寮制の帝立法学校に送り込んだ。そこで学ぶ間に、母親のアレクサンドラがコレラで他界してしまう。卒業後のチャイコフスキーは、一度は両親の意向を汲んで法務省の文官として就職したものの、4年後に退官した。
「私は公務員にさせられた。それも無能な公務員だった。」
幼少のトラウマを癒すすべとして音楽に惹きつけられたチャイコフスキーはサンクトペテルブルク音楽院に入学し、卒業後は1866年にニコライ・ルビンシテインによって創設されたモスクワ音楽院で教鞭を取るようになる。
初期の作品
チャイコフスキーの交響曲第1番、ロココの主題による変奏曲、ロメオとジュリエット、ピアノ協奏曲第1番、そしてオプリーチニク…
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チャイコフスキーの活躍した時代は「ロシア5人組」と時を同じくしていた。「マイティ・ハンドフル」とも呼ばれた彼らはムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、バラキレフら独学を方針とする19世紀ロシア作曲家で構成され、ロシアの民族音楽を支持し、チャイコフスキーが音楽院で修了したばかりの伝統的な西欧音楽教育の排除を目指していた。が、若きチャイコフスキーは5人組の音楽的な取り決めや命令に屈することなく、それでいて彼の欧風な精神や世界主義的な嗜好はつねに母国ロシアへの揺るぎない愛と分かち難く結びついていた。そのことは、ロシア人文筆家アレクサンドル・プーシキンの傑作3つ(エフゲニー・オネーギン、マゼッパ、スペードの女王)を不朽のオペラ名作に仕立てたことからもうかがえる。
ロシア5人組の名作たち
ムソルグスキーの展覧会の絵、リムスキー=コルサコフのシェヘラザード、バラキレフのイスラメイ…
プレイリストを見る▶
※Herbert von Karajan and Evgeny Kissin perform Tchaikovsky's Piano Concerto No.
伝え聞くところによると、チャイコフスキーとプティパが最初に顔を見交わしたのはマリインスキー劇場、ラ・バヤデールの舞台の最中のことだった。劇場の第一バレエ・マスターであったマリウス・プティパは、観客に挨拶するために舞台に歩み出るとチャイコフスキーの座るボックス席に向かって言い放った。「ああ、ロシア一の作曲家がこの劇場のための作品を書いてくれたなら。」その後まるで魔法のごとく、眠れる森の美女(1890年)、くるみ割り人形(1892年)、そして白鳥の湖(1895年)が次々に誕生した。マリインスキー劇場の舞台は、秀逸なるバレエ・ダンサーたちの技巧を堪能する場としてだけでなく、その音楽の素晴らしさでも有名になった。それは比類なく神秘的な、芸術の融和であった。
※Swan Lake by Nureyev, music by Tchaikovsky
1893年、チャイコフスキーは最後となる6番目の交響曲を初演した。自身の作品の中でもっとも満足のいく出来であると本人が宣言した交響曲の発表から一ヶ月後、チャイコフスキーは他界する。「悲愴」の沈痛な調べは終わりの嘆きであり、間近に迫った作者の死を示しているという見方もある。
※Herbert von Karajan conducts Tchaikovsky's Symphony No. 6, "Pathetique"
マリインスキー劇場
サンクトペテルブルク指揮学校(?)の顔ともいえるヴァレリー・ゲルギエフは1978年、キーロフ(現マリインスキー)劇場でプロコフィエフの「戦争と平和」で指揮者デビューを果たした。1988年には同劇場の音楽監督に就任し、1996年には芸術監督兼総裁となった。
マリインスキー劇場におけるゲルギエフの登場と共に、著名な作曲家たちの周年祭を大々的なフェスティバルの形で祝う伝統が生まれた。ワーグナーのオペラたちに新たな命が吹き込まれたのも、マリインスキー劇場管弦楽団がオペラとバレエ音楽の融合や幅広い交響曲のレパートリーを評価され世界的な地位へと引き上げられたもゲルギエフの尽力あってのことだった。
今やゲルギエフ率いるマリインスキー劇場は世界にも類を見ない劇場/コンサート複合施設として発展を遂げている。コンサート・ホールが2006年に、新館(マリインスキー2)が2013年に竣工し、つづいて2016年1月1日にウラジオストクにプリモルスキー・ステージが誕生した。2009年に立ち上げられたマリインスキー・レーベルからは30枚以上のCDがリリースされており、いずれも批評家や音楽愛好家の国際的な絶賛を博している。
■ 1988年:音楽監督
■ 1996年:芸術監督兼総裁
■ 2006年:コンサート・ホール開場
■ 2009年:マリインスキー・レーベル設立
■ 2013年:マリインスキー2開場
■ 2016年:プリモルスキー・ステージ開場
ヴァレリー・ゲルギエフ、ダニール・トリフォノフ、プロコフィエフの協奏曲第1番
マリインスキー劇場管弦楽団、モスクワ・イースター音楽祭
ヴァレリー・ゲルギエフ、チャイコフスキーの交響曲第6番
マリインスキー劇場管弦楽団
ヴェルディのアッティラ
ヴァレリー・ゲルギエフ、マリインスキー劇場管弦楽団
ヴァレリー・ゲルギエフ、辻井伸行
マリインスキー劇場管弦楽団、白夜の星音楽祭
ヴァレリー・ゲルギエフの舞台は国内にとどまらない。世界的に有名なオペラハウスとの共演はもちろん、一流オーケストラを指揮した経験も多い。1997年よりゲルギエフが指揮者を務めるワールド・オーケストラ・フォア・ピースや、ベルリン、パリ、ウィーン、ニューヨーク及びロサンゼルス各都市のフィルハーモニー管弦楽団、シカゴ、クリーブランド、ボストン、サンフランシスコ各都市の交響楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団など。
またゲルギエフは首席指揮者として1995年から2008年までロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団に(その後名誉指揮者に就任)、2007年から2015年までロンドン交響楽団に、そして2015年秋以降ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団に籍を置いている。
白夜の星音楽祭(1993年~)、モスクワ・イースター音楽祭(2002年~)などゲルギエフは多くの国際的な音楽祭を創設し監督として活躍している。
■ マリインスキー劇場管弦楽団:芸術監督兼総裁
■ ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団:音楽監督
■ 白夜の星音楽祭:芸術監督
■ モスクワ・イースター音楽祭:芸術監督
2011年 より、ゲルギエフはチャイコフスキー国際コンクール組織委員会の委員長を務めている。
すでに成熟したアーティストである彼ら素晴らしい若き音楽家たちが、これからの3~4年のスパンの中でロシア国内で演ずる機会を得られるように、私たちに持てる限りの力で保証していきます。その舞台もモスクワやサンクトペテルブルクに限らず、ロシア国内の他の地域や、ヨーロッパ、北米、アジアのあらゆるコンサートホール、劇場、そして音楽祭へと広げてゆきます。これが我々の約束であり、誓った以上、必ず実現させます。
2015年のヴェルビエ音楽祭にて、ヴァレリー・ゲルギエフ、デニス・マツーエフ(1998年大会優勝者)、ダニール・トリフォノフ(2011年大会優勝及びグランプリ受賞者)
Valery Gergiev conducts Mozart and Tchaikovsky – With Denis Matsuev and Daniil Trifonov
ヴァレリー・ゲルギエフはその音楽や社会への功績から世界的な賞を多数贈られている。労働英雄賞(2013年)、アレクサンドル・ネフスキイ勲章(2016年)、ロシア国防省芸術文化賞(2017年)、そして名誉ある国家賞をアルメニア、ブルガリア、ドイツ、イタリア、オランダ、ポーランド、フランス、日本の各国より受賞している。